以前、今夏に勇退する浦和学院の森士監督について書きましたが同じ関東地区で今夏に勇退した帝京高校の前田監督も好きな監督の一人です。ここ10年ほどは甲子園から遠のいていましたが甲子園出場26回、51勝23敗(勝利数は2019年夏現在、歴代4位タイ)・優勝3回は間違いなく「名将」です。
監督就任当初は理想と現実のはざまで、前田監督は立ち尽くします。帝京の監督になった22歳の若き指導者は、次々といなくなる部員を呆然と見送るしかありませんでした。
1972(昭和47)年1月。“就任演説”で「頑張って甲子園に行こう」と話して部員に笑われたことに「腹が立った」ため、意地で猛練習を始めます。「俺の練習についてこれないやつは、辞めたらいい」。その通り、30人いた部員は2人、3人といなくなります。3週間がたつと、たった4人にまで減ってしまいました。
当時のグラウンドはサッカー部との共用。全国に名を轟かせるサッカー部員は100人以上いるのに、野球部は前田が監督になった途端に激減…。監督の「スパルタ」によるものと分かった学校側からは、とうとう批判の声が噴出しました。
職員会議に呼び出された前田は「そんなきつい練習はやめなさい」と集中砲火を浴びた。だが、若く、理想に燃え、信念も曲げない。「黙って見ていてください。3年で東京大会で優勝してみせます」と宣言して、学校側の批判をとりあえず封じます。言ってはみたものの自信があるわけではない。意地だけで出た言葉でした。公約しなければ、その場が収まらない。
言ってしまった限りは、やるしかない。言葉通り、3年後の1975年春の東京大会で優勝を飾ってみせます。さらに3年後の1978年春には初の甲子園の出場キップをつかみ、2年後の1980年選抜大会で伊東投手を擁して準優勝。(個人的には2回戦の上尾戦が好きです。1点ビハインドの9回、二死無走者からヒット☛盗塁☛タイムリーで同点☛延長で勝利の試合が分岐点と思っています。ちなみに上尾の監督は浦和学院の森士監督が師匠と仰ぐ野本監督でした。懐かしいです)
3年後の1983年には自信をもって春の甲子園に乗り込みます。マスコミに「東の横綱」と評価され自信満々に臨んだ甲子園で木っ端みじんに粉砕されます。いま振り返っても「監督生活で最大の衝撃」を受けたといいます。1回戦で蔦文也監督率いる池田高と対戦し0-11と惨敗を喫したのです。前田監督曰く『天狗の鼻をへし折られた。』そうです。以来、ランニング量増加、ウェートおよび水泳トレーニングの導入、そして食事(昼食には弁当に加えておにぎりも持たせる。合宿時にはどんぶり飯を残さず食べさせる。)をもトレーニングの一環として組み込み、選手を高校生離れした体格に育てて強くなっていきます。ちなみに池田には2年後の選抜準決勝1-0で、1991年夏の大会3回戦8-6で勝利し、「恩返し」しています。蔦監督を師と仰いでおり、共演した時には「蔦監督には隙がない」と語っていました。
余談ですがノックの技術はプロ並で、ホームベースから外野ポールに直撃するフライをいとも簡単に打つことができるそうです。
平成に入ってからは強さに磨きがかかり1989年夏、エース吉岡を擁して初優勝。1992年春、1995年夏にも全国制覇。本物の「東の横綱」と呼ばれる存在になっていきました。当初サッカー部と共用だったグラウンドは専用の人工芝に変わり、時代を感じながら、指導を続けてきました。最後に東東京を制したのは昨夏のことです。しかし、独自大会のため甲子園に続く道はありませんでした。
2006年夏の準々決勝、智弁和歌山戦は球史に残る激闘といわれます。9回に8点を奪う猛攻をみせ、その裏5点を失ってサヨナラ負け。相手の高嶋仁監督は18年を最後に勇退。同じ72歳の夏でした。この試合は有名ですので機会があればブログに書きたいです。
前田監督が自ら採用したタテジマのユニホームを人知れず脱ぎました。一時代を築いた名将がまた1人、グラウンドを去りました。
前田監督、お疲れさまでした。私はインタビューや解説時の独特の話し方が好きでした。人柄がにじみ出ていて好感が持てました。
本日は以上です。
大会後、大会の記録をまとめた本、以前は「アサヒグラフ」として販売していましたが今は「週刊朝日」の中にまとめられています。主な内容は
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