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高校野球あれこれ 第58号

夏の甲子園で「世紀の落球」 元開星中堅手「野球、今も好き」


仙台育英(宮城)の初優勝で幕を閉じた夏の甲子園。全国の高校球児憧れの大舞台で「世紀の落球」をした人がいる。松江市の会社員、本田紘章(ひろあき)さん(29)。2010年、開星(松江市)の中堅手として夏の甲子園に出場。九回表2死で平凡なフライを捕球できず、チームは逆転負けを喫した。「あの落球があったからこそ、今の自分がある」。苦い経験を糧に、現在も故郷で野球を楽しんでいる。


◇平凡なフライだったのに
 10年8月11日、開星は1回戦で強豪の仙台育英と対戦し、1点リードで九回表2死満塁のピンチを迎えていた。あとアウト一つで勝利が決まる。張り詰めた空気の中、相手打者の打球は当時3年の本田さんが守るセンター高くに飛んできた。平凡なフライだった。本田さんが落下地点で捕球体制に入ると、当時2年生だったエースの白根尚貴投手は早くもガッツポーズ。誰もが開星の勝利を信じて疑わなかった。本田さんの頭には、チームメートと校歌を歌う姿が浮かんでいた。
 だがボールはグラブからこぼれ落ち、グラウンドを転がった。頭が真っ白になり、何が起きたのか分からない。必死でボールを追い、本塁に投げたが、走者2人が還り、まさかの逆転を許した。
その裏、チームは2死一、二塁の好機を作るも相手の好守に阻まれ、5-6で惜敗した。
 チームメートには後にソフトバンクDeNAでプレーした白根さんや、現在も阪神で活躍する糸原健斗選手らがいた。本田さんは09年のセンバツで公式戦で初めてベンチ入り。優勝候補だった慶応(神奈川)との1回戦で逆転の適時二塁打を放ち、一躍ヒーローになった。その後もレギュラーに定着し、チームの柱の1人として春夏合わせて3回、甲子園に出場した。


 ◇仲間は誰一人責めず
 そんな本田さんにとって、高校最後の夏は華々しい実績とはかけ離れたものとなった。小学4年で野球を始めて以来、平凡なフライを落としたことはなかった。「油断していたからだ。チームに申し訳ない」。試合終了後、肩を落とす本田さんを、チームメートは誰一人責めなかった。糸原選手は「お前がいなかったら甲子園に出られなかったよ」と励ましてくれた。
 だが松江に戻っても、家から出ることができなかった。「普段は引きずらない性格だけど、この時ばかりはさすがに落ち込んだ。誰とも会いたくなかった」と振り返る。
 夏休みが終わって恐る恐る登校すると、同級生もチームメートも今まで通り接してくれた。そうするうちに、だんだんと元気を取り戻していった。
 卒業間際になって、後輩に交じって練習する機会があった。本田さんのところにフライが飛んできた。チームメートから「捕れるかー?」とおどけて声がかかる。しっかりとキャッチした本田さんも思わず苦笑い。卒業アルバムには「大学では落とすなよ」と仲間からのメッセージがあった。「苦い失敗」はいつしか「思い出」に変わっていた。「いい仲間たちに恵まれた。彼らと野球ができてよかった」と実感している。
 進学した大阪体育大でも野球を続け、レギュラーを獲得したが、本格的に練習するのは大学までと区切りをつけた。「木製のバットは自分には合わなくて。やはり、高校時代の金属バットがしっくりきます」


 ◇故郷で社会人生活
 卒業後は松江に戻り、自動車販売会社の営業を経て、現在は山林調査などを行う会社で働く。あの時の反省を踏まえ、目の前の仕事に集中して取り組むように心がけている。たまにミスをしても、「大観衆の前で落球したあの時と比べたら、怖いものはない」と気持ちを切り替え、前向きになれるという。
 仕事の傍ら、地元にある軟式の草野球チームに所属し、主に投手として活躍。休日は練習や試合で忙しく、新たな仲間たちと野球を楽しんでいる。「今でも野球が大好き。体がしっかり動くうちはプレーを続けたい」と目を輝かせた。