[センバツ]いまからちょうど40年前。優勝した池田のエース・梶田茂生の回想
僕がセンバツを取材するのは、今回が30回目。初めては1986年、いまからちょうど40年前だ。優勝したのは、徳島の池田。82年夏、83年春と"山びこ打線"で夏春連覇した強豪だ。
「僕はこんなに小さいでしょう。なにしろ、中学3年で初めて蔦さんと会ったとき”オマエ、小さいのう“の一言です。だからまさかピッチャーなんて……」
思い出話をしてくれたのは、86年の池田の左腕エースで、筑波大から日本生命でプレーした梶田茂生である。夏春連覇の主力打者で、春はエースだった水野雄仁たちと入れ替わりで入学してきたこの世代は、不思議と小さい選手が定位置を獲得したが、梶田はひときわ小さい。当時の登録には、165センチとある。1年生のとき、たまたま使ってもらった練習試合でホームランを打ち、野手としてベンチに入った。2年でレギュラー。新チームになって、「オマエ、ピッチャーやれ。春まででいいから」と、蔦文也監督にいわれた。従うしかない。梶田はいう。
「あのセンバツ、ラッキーボーイは平田(淳司)でした」
1回戦、福岡大大濠に6回まで2安打に封じられ、3点のビハインド。7回裏無死一塁、途中出場の平田が二塁打を放ってチャンスをつくるのだが、実はこのときのサインはバント。見落としである。続く一番・藤原浩史の右前打で1点を返し、無死一、三塁。二番阿部義明の2球目、スクイズを仕掛けたがピッチャーフライとなり、藤原も飛び出してゲッツー。しかし、三走平田はベースについたままだ。またもサインの見落としである。蔦監督は、悔しまぎれに帽子を後方に放り投げた。
ただケガの功名というか、もしかしたらトリプルプレーかも、というスクイズ失敗も、サイン見落としが貴重なランナーを残した。打席には三番・森桂一郎。神奈川県平塚市出身ながら、池田で野球をやりたいと祖父と2人で徳島に転校してきた男だ。その森が、初球をレフトに運んで……同点ホームラン、である。
「だけど爺さん、いや、蔦先生、そのシーンを見ていないんです。甲子園のベンチは、段差があるでしょう。自分で放った帽子をそこまでとりにいって、歓声が起きてもなにがなんだかわからなかった。まあ僕も、ネクストにいたからベンチの様子はわからなかったですが、もう大爆笑やったらしいです(笑)」
その平田は、2回戦からスタメン出場して準々決勝では先制打を放つなど、まさにラッキーボーイになるのである。水野さんらの時代だったら、スクイズなどの細かいプレーは必要なかったかも、と梶田はいう。だが、小粒な梶田たちの時代は、大会ごとに何か新しいアイデアをプレーに生かした。攻撃に関しては、細かい野球が成功したとはいいがたいが。
「あの人には、不思議な力がありましたね。無意識に帽子をかぶり直すだけ、鼻をこするだけで、相手が警戒してバタバタしたり、ベンチがざわざわしたり。僕らからすると、足を組んでベンチにどかっとすわっているだけですから”大丈夫か、この爺さん“と思っているんですよ。それでも、相手にプレッシャーをかけていたのはエースでも、四番でもなく、あのオーラ。あのオーラに守られてたんやな、と思いますね」
タマが速ようなって、ちょうど打ちごろに……
センバツで優勝した夜、梶田とキャッチャーの藤原は、宿舎の監督部屋に呼ばれた。いややで、優勝して説教は……と部屋に入ったら、「ようやった」。ああよかった、春まで限定だったから、もうピッチャーはやらんでいいんやろうな、と思っていると「優勝してしもうたらしゃあない、夏までピッチャーやれ」。
がくっときたが、梶田はハラをくくった。急造投手だから野手の投げ方に近く、まずはスピードは二の次でタイミングと制球重視だった。だが、夏までにフォーム改造に取り組めば、もっとスピードが出て変化球が生きるようになるはずだ。事実、夏の徳島大会を迎えるころには、スピードが3、4キロは上がっていた。そしてエースとして徳島を勝ち抜き、ふたたびやってきたその夏の甲子園。ところが梶田は、なまじ速くなったまっすぐに頼り、池田は1回戦で敗退する(2対7明野)。
「負けたあと蔦先生、”タマが速ようなって、ちょうど打ちごろになってしもうたの。前は遅すぎてタイミングがとれんかったのかもしれん“と。せっかく頑張ったのに、人の気も知らずなんちゅうことを(笑)。でも……僕ね、思うんですよ。山びこ打線って、ファーストストライクから迷わず打ちにいく。たとえばフリーバッティングで、控えの選手が投げてくれるとき、ストライクを見送ると蔦先生は、”おんどれ、だれのために投げてくれてると思うとんのじゃ!“とものすごく怒るんです。それが、積極性につながった」
あの独特の風貌の下に、そういうあたたかみがあった。僕らの代くらいから、ブンではなくカゲでは”じいさん“とか呼んでいましたが、そのことは知らずに亡くなったんじゃないかな……梶田が入学する1年前から、自宅の敷地に蔦寮といわれる寮を建てた。梶田は、3年間を蔦寮で過ごした1期生。部員が増えるにつれて手狭になり、建て増ししていった寮も、いまはない。
