江川卓の作新学院を「5度目の正直」で破った銚子商 ターニングポイントはセンバツでの屈辱的大敗
銚子商野球部にとっても、土屋正勝にとっても転機となった試合がある。1973年センバツ大会の報徳学園(兵庫)戦だ。この大会は、作新学院(栃木)の江川卓が初めて甲子園に出場したことでも注目された。
【まさかの屈辱的大敗】
報徳学園との試合は大会5日目の第1試。下馬評では銚子商優位と思われていたが、序盤からまさかの大量リードを奪われた。先発の飯田三夫が1回2/3で降板。急遽、土屋がマウンドに上がったが、報徳学園の勢いは止められず、終わってみれば0対16の大敗。銚子商はこの大会まで春5回、夏6回、甲子園に出場している常連校で、それまで初戦敗退はなく、しかもこれほどのスコアで負けるなどあり得ないことだった。
監督の斉藤は宿舎に戻るなり、言った。
「よし、帰るぞ!」
銚子商ナインは夜9時にバスを出発させ、千葉に向かった。朝5時頃、銚子の町に入ると、監督の斉藤が大声で言う。
「おい、みんなカーテン閉めろ!」
銚子市民に見つからないようにカーテンを閉めさせたのだが、まったく意味をなさなかった。銚子は漁師町のため、朝が早い。その時間に大型バスが来れば、一目瞭然である。すぐに見つかった。
「バカヤロー、よく帰って来られたな!」「恥ずかしくねえのか!」「この恥さらし」
罵声を浴びせ、なかには石をぶつける輩もいた。銚子市民にとって、前々年の夏がベスト8、前年のセンバツがベスト4だっただけに、期待も大きかった。それが屈辱的な大敗により、失望と絶望が混在し、フラストレーションとなって一気に爆発した。
銚子市民の怒りは、これだけでは収まらなかった。道で野球部員とわかると、電車やバスに乗るのを制止して、1時間の説教が始まる。小学生にまで「よく帰って来られたな」と言われる始末。
ただ銚子市民は、口は出すけど金も出す。銚子商が甲子園出場の際にかかる経費は、すべて市民の寄付金で賄った。まさに銚子商は、「オラが町のヒーロー」だったのだ。土屋はあらためて銚子市民の野球熱と野球愛を感じた。
【朝4時から始まる地獄の6月合宿】
この試合がきっかけとなり、銚子商野球部は変わる。センバツまではコーチ陣に無理矢理やらされていた感があった練習に自発的に取り組むようになり、選手自身に「絶対に勝ちたい」という意識が芽生えた。そんな経緯もあって、今まで以上に過酷な猛練習が始まった。
銚子商は、常に全国制覇を目指すチームづくりをする。監督の斉藤は「江川を倒さなければ全国制覇は狙えぬ」と、"打倒・江川"に照準を定めた。4月末に作新学院に出向き、ダブルヘッダー。第1試合は江川が先発完投し、2対3と敗戦。第2試合は控え投手の大橋康延に0対2と完封負けを喫した。
5月22日に春季関東大会準決勝で再び対戦するも3対5で敗退。しかし、対戦するたびに江川への恐怖心は薄れ、敗れはしたものの江川から3点取ったことで自信をつけた。
そして毎年恒例の1カ月間の"6月合宿"。1年生は朝4時起きでグラウンド整備から買い出し、食事の支度をし、夜は夜でボール磨きや洗濯など、すべての仕事が終わるのは夜中の1時か2時。寝る時間がほとんどないため、昼間、授業中に寝るしかなかった。教師たちも、野球部の連中が授業中に居眠りしても見逃してくれた。学校側も甲子園出場に向け、全面的にバックアップしていた。土屋が振り返る。
「『まだ生きてるわ』っていうくらい、めちゃくちゃ練習はやったね。6つ上のコーチが怖くて......。ピッチャーは投げるか、走るか。息抜きはバッティングだけ。とにかく走ってましたね」
土屋だけでなく、ほかのメンバーに聞いても"6月合宿"に関しては、ありふれた慣用句だけでは収まらないほど地獄の苦しみだったと口々に言う。
朝4時に起床し、400メートルトラックの1分間走を1分間のインターバルをおいて20本。そのあとは急勾配の坂道を、コーチがバイクに乗りそれを押しながら駆け上がる。登校時には一般学生もその坂を利用するが、毎年6月は登校時間にそこで野球部員がぶっ倒れているのが朝の光景だった。
授業のあとは、午後3時半から夜10時頃まで練習。そして土日は練習試合。これを1カ月の間、学校に泊まり込みで続ける。
この合宿の狙いは、精神的にも肉体的にもとことん追い込み、一度どん底まで調子を落とし、夏の大会が始まる頃から徐々にピークを持ってくるためだ。
斉藤は「おまえら決勝で負けたら、1回戦で負けるのと同じなんだ。優勝チームの名は残るけど、準優勝チームの名は残らないだろ!」と選手たちを鼓舞しながら、スパルタ指導で技量を磨き、精神修養する。これが斉藤のやり方だった。
【江川卓が三振数で負けた唯一の男】
激戦の千葉大会を勝ち抜き、土屋は2年夏も甲子園出場を果たす。そして2回戦で江川の作新学院と対戦することになった。
練習試合を含め、作新学院との対戦は5度目となる。それだけに夏の甲子園1回戦(柳川商)での江川の不出来なピッチングを見た3年生は、「今度こそ作新に勝てる」と士気を上げていた。だが、土屋は違う感情を抱いていた。
「江川さんに勝てるとは思っていなかった。どうしたら負けないかだけを考えていました。『延長18回になっても0点に抑えるしかないな』って......」
試合は今にも雨が降り出しそうな空模様のなか始まり、江川は延長15回を戦い抜いた疲労が残っていたのか、初回から三振を奪うよりもコーナーを突く省エネモードで投げていた。「いけるぞ、いけるぞ!」と、銚子商のベンチから威勢のいい声が響く。
両チーム無得点のまま迎えた7回裏、銚子商の攻撃。二死二、三塁の得点のチャンスで、8番の土屋に打席が回ってきた。第1打席でセンター前ヒットを放っており、土屋はリラックスした気持ちで打席に立った。
「あの打席の球だけは違った。今までのボールは何なの......っていうくらい、『ゴォー』と唸りを上げて向かってきたのを覚えています。最後は高めのつり球に手を出して三振。誰かが『江川の球は死んでいる』って言ってたけど、『生きてるじゃねぇかよ』って」
江川が「土屋は本当にいいピッチャーでした。だから土屋の打席の時は無意識に力が入ったのかもしれませんね」と言うほど、その実力を認めていたのは間違いない。
試合は死闘の末、延長12回、サヨナラ押し出しで銚子商が勝利した。高校2年夏の作新学院戦の映像を見ながら土屋に話を聞いていると、「やっぱりコントロールがいいね」と自画自賛し、「あんなに腕が大きく振れているよ」とテイクバックの大きさにびっくりしていた。あの時はヒジも肩も致命傷ではないため、思いきり腕を振れている自分の姿を見て、土屋は感動していた。
「でも、オレなんか一球一球が必死なんだよね。江川さんなんか、力の配分が理想的なんですよ。でも、この夏の甲子園の江川さんはこれまでとは違いましたね。だってバットに当たるんですから。そんな次元です。初めて見た時は、プロの選手が投げていると思うほどのレベルの違いを感じました」
1学年下の土屋にとって、江川に対する思いはライバルというより、あくまで先輩という感覚なのだ。5回対戦したが、一度も江川とは話したことがないし、プロ入りしてからも会話らしい会話はしたことがないという。
「江川さんを筆頭に、スター揃いのひとつ上の世代と戦ってきましたから。自分が最上級生になって、同学年ですごいとかあまり思わなかったですね」
土屋にとって"江川世代"と戦えたことは特別であり、肩やヒジを壊す前だったことも関係しているのであろう。
「作新のバッターが高めの球を空振りしているってことは、ボールがいっている証拠ですよね。江川さんと投げ合った夏の甲子園が一番よかった。江川さんが最低の投球をし、僕が最高の投球をした。だから、勝てたんです」
この試合、土屋が奪った三振は12で、江川は9。高校時代の江川が、相手投手より三振数が少なかったのは、初めてのことであった。