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高校野球あれこれ 第129号

【ドキュメント】あの夏、大谷翔平が甲子園を震撼させた「二本のライナー」帝京・伊藤拓郎、阿部健太郎が肌で感じた「怪物の片鱗」

 

右肘靭帯の損傷が発覚して以降もバッターとして活躍を続けるエンゼルス大谷翔平。2位に10本差をつけているホームランはもちろん、3差2位の打点、3位につける首位打者のタイトル獲得も可能性があり、三冠王の期待も抱かせている。そんな大谷が花巻東高校時代に夏の聖地で残した怪物の片鱗を、対峙した選手たちが明かす。

 

スライダーにバットを止めた大谷

大谷が甲子園デビューを果たしたのは2年生時の2011年の第93回全国高校野球選手権大会。191cmの長身から最速151km/hを投じる大谷は「東北のダルビッシュ」とも称され、大会前から注目選手の1人となっていた。

 

 しかも組み合わせ抽選の結果、初戦の対戦相手が名将・前田三夫監督が、のちにプロに進むことになる伊藤拓郎(元DeNA)、松本剛(日本ハム)、石川亮(オリックス)らを率いて優勝候補に挙げられていた帝京高校に決まり、俄然、その投球ぶりに関心が高まっていた。

 

 だが、帝京のエースで2年前の大会で1年生史上最速の148km/hをマークし、同大会でも屈指の好投手と評されていた伊藤は、「大谷と投げ合うことはない」と考えていた。

 

 「怪我をしているという話を聞いていて、チームとして大谷の登板はないと予想していました。ほんの少しですが見た映像では今と違って全然、細い体でしたが一発がありそうなスイングをしていたので打者として警戒していました」

 

 大会開幕前、大谷は投手として投げられる状態であることを強調していたが、実際は岩手県大会前に発症した左太もも裏肉離れは完治していなかった。県大会の投手成績も1試合に途中登板し、1回3分の2を投げて4失点。この試合でも帝京サイドの読み通り先発登板はせず、痛み止めを飲んで「3番ライト」でスタメンに名を連ねた。

甲子園での最初の打席は2点を先制された後の1回裏、無死1、2塁。伊藤はすぐさま驚かされたという。

 

 「事前にこう攻めようというのは決めていなくて、対戦しながら苦手なところがわかればいいと思っていました。僕はスライダーが一番、自信のある球で、スライダーの反応を打者の力を推し測る基準としていました。ストライクからボールになるインコースのスライダー、これは振ってほしいと思って投げた球を、大谷は振りかけたんですがバットを止めたんです」

 

 得意のスライダーでカウントを稼げない。どうやってカウントを整えるか。なによりストレートが甘く入らないようにしないといけない。相手のウィークポイントを探るどころか、自分が考えさせられる立場になってしまった。それは名門校で1年生から主戦として投げてきた伊藤にとって稀有なことだった。結局、伊藤は大谷を歩かせてしまってピンチが拡大、二死後に同点タイムリーを浴びる。

 

聞いたことのない打球音

 第2打席はセカンドライナーに抑えた。だが、伊藤は打球を「ちゃんと覚えていない」と話す。それは致し方がないことだった。見えたのは打った瞬間だけだったのだ。

 

 「僕の高校3年間で一番速い打球だったと思います。打たれてセカンドの方に飛んだというのはわかったんですけど、セカンドのどのあたりかもわからなくて、後ろを振り向いたら阿部(健太郎)が捕った後でした。あれはすごかったです」

 

 この痛烈なライナーについて、監督の前田は自身の著書で「長い高校野球監督生活の中で唯一、目で追うことができなかった」と回顧。ずば抜けた運動神経の持ち主の阿部健太郎だったから捕球できたとも付け加えている。その阿部は、まず音におののいたと話す。

 

 「それまで聞いたことのないような打球音で、あんなにバットの芯の中の芯を食って、あんなに速い打球というのは記憶にないです。ほとんど動いていない。動く時間もなかったですね。しかも打球が二塁の審判に重なってしまった。打った瞬間は、あっ、セカンドライナーが来たと思って、打球が消えて、感覚的にグローブを出したら入っていた」

 

 たった2打席で歴戦の強者たちに忘れることのできないほどのインパクトを与えた大谷は、さらに4回表。「投げられないと判断したときはすぐに伝えること」を佐々木洋監督との条件にマウンドに上がる。

 

 「登板してきたことにびっくりして、投球練習を見て、また驚きました。太ももの影響からか、上体だけで投げている感じなのに140km/h中盤は出ているように見えました」(伊藤)

 

ストライクのストレートに腰が引ける

 場面は一死1、3塁。打席には4番の松本剛。初球のストレートを打って出てライトへの犠牲フライとなる。球速表示は148㎞/hだった。

 

 「コンディションが悪く手投げみたいな投げ方で、そのスピードですからね」

と言う阿部だが、大谷からは2安打をマークしている。

 

 「大谷は真っすぐが一番の武器だろうと思ったので、それに打ち負けていたら話にならない。差し込まれないようにという意識で打席に入っていました。1本目は追い込まれてからのフォークに合わせただけですし、2本目は真っすぐをレフトに弾き返せましたが、僕の打席では力をセーブしていたのか、球速は140km/h前半くらい。僕の後を打つ拓郎さんや松本さんのときはもっと速かった。打者や場面によってギアチェンジしていたと思います」

 

 阿部の後ろの3番を打っていた伊藤もストレートに狙いを絞っていた。

 

 「松本が初見で前に飛ばせたということもあってストレートのほうがチャンスがあるとは思っていたんですが、同点の5回二死1、2塁の最初の対戦で3球目にスライダーが来て、キレがすごくて変化球は打てないなと思いました。以降はずっとストレートだけ狙っていました」

 

 カウント1ボール2ストライクからの次の球は、そのストレート。ギアを上げて投じた球は球速表示の147km/h以上の勢いがあった。伊藤は恥ずかしそうに振り返る。

インコースは待っていなかったんですけど、体のほうにストレートが来たと思ってびっくりして腰が引けちゃったんです。でも、実際にはストライクを取られるかなというコースを通って、自分でも見逃し三振だと思いました」

 

 しかし、結果はボール判定。大谷はストレートを続ける。スコアボードには05年夏の田中将大(駒大苫小牧高校)以来2人目となる2年生としての甲子園最速タイの150km/hが表示された。伊藤が食らいつくように弾き返した打球はサードを強襲してヒットとなった。

 

群を抜く投手としての総合力

 「速かったです。当てるのに必死でした。でも、ちょっと曲がったようにも見えて、カットボールみたいな球なのか、真っすぐなのか、わからなかったです。だからあとで150㎞/hって聞いて、えっ、真っすぐじゃないかもしれないのにそんなに出ていたんだと」

 

 投球以外にも伊藤を慌てさせたのが、牽制球だ。一塁走者だった伊藤が大谷の牽制に対して手から帰塁する場面があった。

「牽制の動作もめちゃくちゃ速かったです。ヘッドスライディングで戻ったことはなかったんですが、速すぎてヤバいと思ってとっさに手から帰りました」

 

 阿部の目にはフィールディングの速さが焼きついている。

 

 「7回表に無死二塁で水上(史康)さんが送りバントをしたんです。ピッチャー前でしたが、あんなに無駄のないフィールディングで、サードが一番タッチしやすいところに正確な送球をしてみせた。しかもその球が速くて140km/hは出ていたと思います。サードがグローブを置いて待っているくらい余裕のアウト。かなり器用だなと思いました」

 

 随所で帝京ナインを驚かせ続けた大谷だが、伊藤も阿部も、もっともインパクトの強かったプレーについては、同じ場面を挙げる。

 

レフト前ヒットがホームラン?

 花巻東が2点を追う6回裏、無死2、3塁。帝京のピッチャーは伊藤からバトンを受けたサウスポーの石倉嵩也。外角のストレートを逆らわずに打ち返し、レフトフェンス直撃の同点タイムリーヒットが、それだ。まずは阿部から。

 

 「帝京を卒業後、東洋大NTT東日本でもプレーさせていただきましたが、左バッターがあの低い打球角度で、フェンス直撃まで持っていくというのは社会人時代を含めても見たことがありません。打った瞬間は、あっ、レフト前ヒットだ。同点にされてしまうかもと思った。でも、打球がどんどん伸びて、あれ? って。えっ、ホームランまでいっちゃうのって。フェンス直撃でよかったって。投げた石倉だってJR東海でもやったピッチャーでアウトコースへのいい球だったんです。打球の速度も度肝を抜かれました。あれ以上の打球は見たことがありません」

 

 ファーストのポジションに変わっていた伊藤も同じ言葉を使った。

 

 阿部は大谷と同学年だが、その存在感に目を引かれていた。

 

 「2年生でしたけどチームの太い柱のような、まとめているのが大谷だったと思います。大谷に回せばなんとかなるみたいなものが花巻東にはあるように感じました。そして、実際に結果を出してみせる。プロでも活躍すると思っていましたが、常に想像以上、期待以上のものを残し続けていますよね。僕は一昨年、ユニフォームを脱いで今は社業を頑張る立場ですが、大谷の活躍に元気や勇気、感動をもらっています」

 

 逆境を乗り越え、周囲の期待に応え続ける姿は当時も今も変わってはいない。