甲子園出場“3回だけ”の新興校から今年は「ドラフト指名3人」のナゼ《5年連続プロ輩出》京都国際高のナゾを追う「最初は部員を揃えるために…」
今年も甲子園常連の名門校・強豪校の主力選手がまさかの「指名漏れ」に泣いたプロ野球ドラフト会議。その一方で、甲子園出場はわずか3回だけの京都国際高からは、同時に3人の選手が育成指名され、これで指名は5年連続となる。なぜ、同高の選手はプロ球団から“選ばれる”のだろうか? その秘密を野球部の小牧憲継監督に聞いた。
08年 申成鉉(広島4位)
13年 曽根海成(ソフトバンク育成3位)
16年 清水陸哉(ソフトバンク育成5位)
19年 上野響平(日本ハム3位)
20年 早真之介(ソフトバンク育成4位)、釣寿生(オリックス育成4位)
21年 中川勇斗(阪神7位)
22年 森下瑠大(DeNA4位)
23年 杉原望来(広島育成3位)、浜田泰希(日本ハム育成1位)、長水啓眞(ソフトバンク育成8位)
これは京都国際高校がプロ野球界に輩出した選手の一覧だ。今季オフに戦力外となった選手もいるが、99年に創部された比較的歴史の浅い学校から、これだけプロ野球選手が誕生することはあまり例がない。
しかも近年は今秋まで5年連続で育成も含めてドラフト会議で指名を受けている。チームとしても、21年のセンバツで甲子園に初出場し、同年夏には甲子園でベスト4に進出。今や京都府内の高校野球界の新興勢力ではなく、常勝軍団の気風さえ漂っている。
在日韓国人を受け入れてきた「京都韓国学園」を前身とし、04年から現校名となった。
08年の春の府大会の3位決定戦に勝ち近畿大会に初めて出場したものの、当時の部員は13人だった。小牧憲継監督は当時のことをこう回顧する。
「初戦で浅村(栄斗・楽天)選手のいた大阪桐蔭と当たって、いきなり完全試合されました(苦笑)。大阪桐蔭、あらためて強いなと思ったら夏の甲子園で全国制覇しましたからね。ウチはやっと近畿大会に出られた、みたいな感じでしたから」
秋には4人の3年生が引退し、部員は9人となった。「そのうちちゃんと野球ができるのは4、5人」と小牧監督が明かすように、当時は部員不足が悩みの種だった。
「あの頃はとにかく試合ができる人数を揃えるのに必死でした。来ても、野球できる子とキャッチボールができる子ってすごく限られるんですよ。
入部しても、打ってサード方向に走るヤツもいたくらいなんです(苦笑)。いずれ甲子園には行きたいとは思いましたが、このグラウンドでこの戦力でと思うと、とても行けるとは思えませんでした」
京都国際は校内のグラウンドが練習場だが、その広さは右翼が約60m、左翼は約70mで、ただでさえ狭い上に、球場特有の扇状ではなく台形に近い少しいびつな形をしている。
「大会で勝つことは厳しい。それなら…」
外野との連係プレーの練習はなかなかできず、公式戦では内外野の間に落ちるポテンヒットが決勝点となり敗れる試合も少なくなかった。
「強豪校のサブグラウンドの広さすらないですよ」
そう小牧監督は苦笑する。
「だから、大会で勝つことは厳しいと。めぼしい選手を徹底的に鍛えて上手くして、プロまでは行かなくても大学や社会人チームに1人でも送り出していけるようにやってきました。そうすれば入ってくる子の数や質が上がってきてくれるのではないかと思って――」
小牧監督は関大在学中に当時の京都韓国学園OBのチームメイトから声を掛けられ、野球部の練習を手伝ったことが指導者人生の始まりだった。大学卒業後、銀行員の傍ら外部コーチとして指導を続け、07年に教員となって正式にコーチに就任した。
だが、前監督が急きょ退任することとなり、08年より監督として指揮を執ることになった。
「当初は前監督が声を掛けていた選手が卒業したら監督は辞めるつもりでした。いつ辞めようか、いつ辞めようかと思ってやってきましたが、だんだん辞められなくなって(苦笑)」
そんな中、出会ったのが同校2人目のプロ野球選手となる曽根海成(現・広島)だった。
「曽根は2年上にお兄ちゃんがいて、弟は野球が出来ると聞いていて。性格はやんちゃな上に家庭環境があまり良くなくて、進学という選択肢は考えられなかったんです。
中学生の時にプレーする姿を見て、一線級の名門校に行けるほどではないですけれど、足と肩はそこそこ良い印象でした。ある高校の監督からは“そんな選手を取っていたら一生甲子園には行けんぞ”って笑われましたけれど、当時のウチにしたら十分な戦力だったんですよ」
曽根は、入学後1年夏から三塁手のレギュラーとなり、2年の夏は遊撃手、3年の夏には捕手を務めるほど野球センスは抜群だった。その後、ソフトバンクから育成3位指名を受け、4年目となる17年3月に支配下登録となった。そしてその年のフレッシュオールスターでMVPを獲ったことで曽根海成の名を知る者も多かったはずだ。
「あの頃、中学生の時の曽根を知る指導者がみんな驚いていたんですよ。“曽根があそこまでの選手になるなんて”って」
曽根の活躍で集まり出した選手たち
決して素行が良くなかったうえ、ほぼ無名の野球少年が、プロ野球界の第一線の舞台に立ったことは周囲に強い衝撃すら与えた。それから近郊の野球チームには「京都国際に選手を預ければ、ひょっとしたら……」と大きな可能性を期待する指導者も少なくはなかった。
「あの頃からですかね。ようやく“野球”ができるようになったのは」
当時、甲子園出場がなかったとはいえ、曽根の躍動する姿が“プロに進むためのノウハウを学べるのかもしれない”と野球少年の心にも刺さっていた。
17年春に入学してきた上野響平(日本ハム→オリックス)もその1人だった。
「上野はちょうど進路を決めるタイミングだった中学3年の夏に、曽根が二軍とはいえ活躍していたことが決め手になったようです」
派手さはなかったが、小柄ながら抜群の守備力を誇った上野の動きを最後までチェックしていたスカウトも多かった。芯の強さもプロ向きと評価された上野の名は、じわじわと関西圏のドラフト候補生として耳にするようになった。
「甲子園よりもプロに行きたい」想いを秘めた選手の存在
さらに昨年のドラフトでDeNAから4位指名を受けた森下瑠大は「顕著な例です」と小牧監督は言う。
「森下がウチを志望したのは、プロのスカウトが普段から練習を見に来てくれると聞いたから、と言っていました。『甲子園よりもプロに行きたい』と1年生の時からきっぱりと言っていましたけれど、ピッチャーですし、『ある程度公式戦で勝たないと評価してもらえないよ』『こんな無名校を甲子園に連れて行くくらいやらんと』って言ったら“じゃあ僕が甲子園に連れて行きます”って、小さい声でボソッと言うたんですね(笑)。内に秘めるものは凄くて、プロに行くなら……とハッパをかけたら、ものすごくスイッチが入っていましたね」
京都国際に入学した当時のストレートのスピードは125km前後。「田舎の子なんで、強豪校に行っていたら圧倒されてたぶんベンチ入りも難しかったでしょう」と小牧監督が話すほど普段は目立った存在ではなかった。ただ、森下は鋭い感性の持ち主でもあった。
小牧監督は続ける。
「森下は自分に足りない要素を冷静に分析して自分で計画を立てて、僕がどうこう言わなくても自分で進んで練習していました。冬場の全体練習が終わると一目散に寮に戻ることもありましたが、自分に見合ったトレーニングをちゃんと考えて、これはやるけどこれはやらない、みたいに必要なことだけ取り入れることが当時からできていたんです。段階を踏んで成長してきたし、コイツはプロでも大成するなと思いましたね」
監督が語った歴史のように、これまで少しずつ、しかし確実にプロ球団からの評価を高めてきた京都国際高。そしてついに今秋のドラフトでは、驚きの結果を出すことになる。
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