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高校野球あれこれ 第120号

ライバル校へ“禁断の移籍”で非難も 

複数チームを甲子園に導いた高校野球の名将たち

 

開催中の夏の甲子園大会で、専大松戸・持丸修一監督が、8月12日の初戦(2回戦)で東海大甲府を下し、甲子園春夏通算8勝目を挙げた。持丸監督はこれまで竜ヶ崎一、藤代、常総学院専大松戸の計4校を春夏の甲子園に導いており、佐賀商、千葉商、印旛、柏陵を率いた蒲原弘幸監督と並ぶ大会最多記録になる。そして、この両監督以外にも、複数のチームで甲子園に出場した監督が多く存在する。

 

宮城県内の“二強”東北、仙台育英の両校で指揮をとったのが、竹田利秋監督だ。

 

 和歌山県出身の竹田監督は、東北時代に春夏通算17回甲子園に出場。1972年春に4強入りするなど、同校を甲子園でも勝てる強豪に育て上げた。

 

 だが85年、宮城に来てから20年経ったことを潮時と考え、夏の甲子園出発前に日付なしの辞表を学校側に提出。準々決勝で甲西にサヨナラ負けした直後、辞意を表明し、8月31日付で退職した。今後は県外の他校に移って指導を続けるとみられていた。

 

 ところが、これに「待った!」をかけたのが、宮城県体協会長で、野球に造詣が深い山本壮一郎県知事だった。「あなたを失うことは、東北の損失だ。宮城に残ってほしい」と誠心誠意で説得。そして、移籍先として仲介したのが、ライバル校・仙台育英だった。

 

 東北に残してきた教え子たちの気持ちを考え、決断に迷った竹田監督だったが、最終的に「私は宮城県が好きです。県の高校野球界に尽くしたい」の気持ちが勝り、仙台育英へ。

 

 東北、仙台育英の両校は、夏の甲子園出場をかけた対決が“七夕決戦”と呼ばれるほど、お互い強烈なライバル意識を持つ。ライバル校への“禁断の移籍”は、当然のように「裏切者!」「恩をあだで返した!」などと非難された。また、当時の仙台育英は不祥事で半年間の対外試合禁止処分を受けており、「ゼロと言うよりマイナスからのスタート」だった。

 

 だが、「宮城に、東北に優勝旗を持ってきたい」の情熱を胸に、竹田監督は翌86年夏、早くも同校を5年ぶりの甲子園に導き、89年夏には大越基(元ダイエー)をエースに準優勝と、大目標にあと一歩まで迫る。95年夏の甲子園出場を最後に退任したが、その意志を受け継いだチームは昨夏、須江航監督の下、東北勢初の全国制覇を成し遂げ、長年の悲願を実現した。

 

智弁学園智弁和歌山の両校で甲子園歴代最多の通算68勝を挙げたのが、高嶋仁監督だ。

 

 当初は監督になるつもりはなく、3年間の約束で智弁学園のコーチを引き受けたが、3年目に前監督が突然辞任したことから、急きょ後任に指名された。

 

 悩んで相談した大学時代の恩師から「とにかくやってみろ」と背中を押され、26歳で監督に就任。“打倒天理、郡山”を目標に、日々の練習を通じて部員たちとコミュニケーションをとることの大切さも学び、77年のセンバツ4強など、チームを春夏3度の甲子園に導いた。

 

 その後、同校野球部長を経て、80年に開校3年目、創部2年目の兄弟校・智弁和歌山の監督になった。

 

 だが、チームがある程度形をなしていた智弁学園に対し、当時の智弁和歌山は練習試合でも勝てない同好会レベル。春夏連覇達成の“王者”箕島が富士山よりも高く見える「ゼロからのスタート」だったが、個々の力に合わせた練習で選手を手塩にかけて育て、3年目の夏に県大会4強。以来、有力選手も入学してくるようになり、85年春に甲子園初出場をはたした。

 

 その甲子園ではなかなか勝てず、92年夏まで5連敗。だが、「また負けに来たんか!」というスタンドのヤジに「甲子園に出るために一生懸命やって来たが、甲子園で勝つために一生懸命やっていなかった」と思い当たり、常に甲子園を意識した練習法を導入。93年夏に初勝利を挙げると、翌94年のセンバツで初優勝。以後、春夏併せて35回出場。優勝3回、準優勝4回の黄金時代を築き上げた。

 

 広陵、福井(現福井工大福井)、京都外大西の3チームで甲子園勝利を実現し、冒頭で紹介した持丸監督(常総学院時代は未勝利)と肩を並べるのが、三原新二郎監督だ。

 

 選手の個性を引き出し、相手の虚を突く臨機応変な采配は、同姓のプロ野球監督・三原脩にちなんで“三原マジック”と呼ばれた。

 

 京都外大西時代の05年春、練習試合で負けが込み、前年のチームの1年分の負け数を上回ると、三原監督は「考えてプレーしているように見えない」と3年生全員に練習参加禁止を命じた。

 

そして、根気良く会話の場を持ったあと、彼らが練習に対する考えを改め、ひとつひとつのプレーの大切さを自覚するようになると、復帰を許した。

 

 その後、夏を最後に三原監督が勇退することを知ったナインは「監督を甲子園に連れていこう」と心をひとつにして目標を達成したばかりでなく、甲子園でも「2勝できれば十分」だったチームが、準優勝を成し遂げた。決勝では夏連覇の駒大苫小牧に敗れたものの、三原監督自ら「最高の夏だった」と評したように、同年の京都外大西の快進撃は、まさにマジックだった。

 

 取手二常総学院の両校で全国制覇を実現した木内幸男監督の“木内マジック”もそうだが、マジックとは“以心伝心”が基本であることを実感させられる。

 

 

 

 

 

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