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高校野球あれこれ 第143号

立浪和義がいたPL学園「野球部は解散だ」悲劇から最強チームに…桑田・清原3年時に入学、関係者明かす“タツの素顔”「批判される現状ですが…」

 

2年連続最下位から勝負の3年目を迎える中日・立浪和義監督。どうすれば逆風を追い風に変えられるのか――PL学園時代のエピソードやプロ野球関係者の証言、監督2年間の検証を通して、2024年シーズンの光明を見出してゆく。

 

立浪和義PL学園の同期生である野村弘樹(元横浜)は言う。

 

タツほど正直で、真摯に野球と向き合ってきた男はいません。1年や2年で結果を残せるのなら誰も苦労しない。ここまでの2年間は土を耕し、種をまいてきて、岡林(勇希)のような若い芽がようやく出てきた状況です。結論を出すにはまだ早い。あらゆることが批判されてしまう現状ですが、悲観はしていません」

 

 チームを統率する立浪の原点は、主将を務め、1987年に甲子園の春夏連覇を達成したPL学園時代にある。

 

桑田・清原が3年時…1985年にPL入学

 立浪が同校に入学したのは、1985年だ。当時のPLには、桑田真澄清原和博のKKコンビが3年生として君臨し、4季連続で甲子園に出場中だった。実力、人気共に絶大だったPL学園の最盛期にあたる。

 

 しかし、いくら中学生が入学を希望したところで、誰もがPLの門をくぐれるわけではない。必ずある人物のお眼鏡にかなう必要があった。その男とは、伝説のスカウトと呼ばれる井元俊秀。PL学園の1期生で、初めて同校が甲子園に出場した時の監督である。その後、学園の母体であるパーフェクトリバティー教団の2代教祖・御木徳近の存命中(1983年に死去)に厳命を受けて、中学生のスカウティングを担当し、80年代から90年代にかけて常勝軍団を陰から支えた。

 

 井元は立浪が在籍していた茨木ナニワボーイズに足を運び、エースの橋本清(元巨人ほか)と、遊撃を守っていた立浪のふたりの才能に惚れ込み、PLに導こうとした。井元は言う。

 

タツはとにかく野球が好きなことが伝わってくる中学生でした。身体は大きくなかったし、スローイングにもちょっとした癖があった。だけどグラブ捌きとフットワークが素晴らしく、打つ方でもスイングスピードに加え、ミート力に長けていた」

 

当時スカウト「タツが優れていたのは…」

 PLで常勝軍団を構築したあと、青森山田やノースアジア大明桜(秋田)でもスカウトを担当した井元も、86歳となった現在は高校野球と距離を置く。半世紀以上のスカウト生活を振り返ってみると、立浪よりも守備の上手い選手や身体能力に長けた選手はほかにもいた。

 

「ショートの守備に関してはKKコンビの1歳上にあたる旗手浩二(サッカー選手・旗手怜央の父)ですね。身体能力においては松井和夫(現・稼頭央、埼玉西武監督)に勝る選手はいなかった。松井は高校時代、投手でしたが、175cmほどの身長なのに、バスケットでダンクシュートを決められるほどジャンプ力があり、全身がバネのようだった。タツが優れていたのは野球と向き合う姿勢であり、選手を束ねる人間力だった」

 

 ところが、立浪はナニワボーイズの監督とつながりが深かった大商大堺に進学することが決まっていた。それゆえ、井元も一度は立浪の入学を断念したが、受験間近になって、立浪が翻意する。ナニワボーイズの監督から連絡を受けた井元は「大歓迎です」と伝え、橋本と共に立浪の入学も決まった。

 

「これは断じて言うんだが、決して裏取引のようなものはなかった。PLの練習は全体練習が短く、監督の中村順司(当時)も細かい技術は教えなかった。野球と向き合う姿勢を説いて、練習はやらされるものではなく自らやるものだということを徹底した。だからこそ、全体練習は2時間から3時間ほどで、あとはそれぞれ足りないところを自主練習した。自ら考えて取り組む練習こそ真に身につくということをPLの選手は分かっていた」

 

本人が語っていた「PL時代の思い出」

 当時について立浪は、2018年に行った筆者のインタビューでこう回想している。

 

《当時、PLには選ばれた選手しか入れなかった。そのPLに声をかけてもらったのだから、行くしかないな、と。中学時代の監督には、頭を下げて謝罪しました。入学したPLで、僕らは桑田さん、清原さんらのチームと比較されていましたから、負けられないというプレッシャーは常にありました》

 

3年時に「PL唯一の春夏連覇

 KKコンビが最後の夏に1年時に続く日本一となり、両者はプロ野球の世界へ飛び込んでいく。2歳下にあたる立浪ら33期生にとって悲劇が起きたのは、彼らが2年生だった1986年の6月だ。グラウンド脇にある池で同学年の部員が水死する事故が起きる。井元はその一報を東京で聞き、すぐに大阪に戻った。

 

「野球を愛した2代教祖からは、『世の中の人に迷惑をかけたら野球部は解散だ』と言われていた。親御さんから預かっている部員が亡くなるということは、当然、チームを預かる我々の責任であり、解散の危機であり、現代であれば大きな社会問題となったでしょう。ただ、ご遺族に『これからの野球部の活動に影響がないように』というご理解とご配慮があった。そこで池の脇に碑を建て、活動を再開したのです」

 

 現在の感覚からすれば、学校側の対応に問題があったことは否めない。だが井元は「仲間を失ったことで立浪の代は一致団結した」と当時を振り返る。立浪と同期生の野村も同じ意見だ。

 

「事故が起こった当初、高校2年生ですから、正直言うと、人が亡くなるということの実感がなかった。仲間が亡くなったということを受け入れるとか、受け入れないではなく、信じられなかった。しかし、僕らが最上級生となってからは、試合中に苦しくなると亡くなった仲間のことを考えていたし、同期の背を押してくれた部分はあると思います」

 

 

 

 


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