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高校野球あれこれ 第127号

草野球から“奇跡の復活”、「元ドラ1」野中徹博が歩んだ「不屈の野球人生」

 

甲子園では球史に残る投手戦

昨オフも12球団で計129人が戦力外通告を受けた。近年は独立リーグなどでプレーを続け、NPB復帰をはたした例もあるが、それほど多くはない。そんな厳しい実力社会において、1度は現役を引退しながら、5年後にNPB復帰をはたし、通算10年目で初勝利を挙げた“不屈の男”がいる。

 

男の名は野中徹博。中京高(現・中京大中京)エース時代に春夏3度の甲子園に出場し、1982年は春夏ともにベスト4、翌83年夏は準々決勝の池田高戦で水野雄仁(元巨人)と球史に残る投手戦を繰り広げたことを覚えているファンも多いはずだ。

 

 だが、ドラフトでは、セ・リーグの球団を希望していたにもかかわらず、「知らない球団だった」という阪急に、高野光(元ヤクルトなど)の“外れ1位”で指名され、戸惑いを覚えたという。

 

 迷った末に入団し、背番号18を貰ったが、プロ1年目からいばらの道が続く。豪快に腕を振って投げ下ろすフォームをコーチに改造され、新しいフォームで投げつづけているうちに肩を壊してしまったのだ。

 

 2年目の1985年も肩をだましだまし投げ、プロ初先発のチャンスを貰った5月8日のロッテ戦で6回2死まで2失点と好投したが、同18日の西武戦では2回途中5失点KOされるなど、結果を出せず、6月に2軍落ちした。

 

ドラフト1位」(沢宮優著、河出文庫)によると、そんな苦闘の日々を、本人は「ここで真っ直ぐでガーンと行ってみよう。そういう度胸が無くなってきた。怖いから逃げてしまうのです。オレの真っ直ぐを打ってみろ!  と思えなくなって、コースを狙う。ボールになる。肩を壊しているから、速球も以前ほど速くない。マウンドという舞台に上がる前に、自分の精神的な弱さが出てしまった」と回想している。

 

漫画家・水島新司氏の誘いで草野球チームに

 同年オフ、選手生命を賭けて肩を手術したが、元には戻らなかった。練習生を経て、88年秋から内野手に転向し、心機一転、背番号を「0番」、登録名も「野中崇博」に変えた。

 

 球団名がオリックスに変わった翌89年は、6月9日に発表されたオールスターファン投票の第1回投票結果で、1軍実績のない野中がパ・リーグ三塁手部門でトップになる珍事が話題になった。

 

 両リーグとも2軍の選手が上位にズラリと並ぶ不思議な投票結果は、「今の時期なら500票前後でトップに立てる」と誰かが意図的に大量投票したようだが、このとき、野中が内野手に転向した事実を初めて知ったファンも少なからずいたかもしれない。

 

 同年、野中はウエスタンで49試合に出場し、打率.327、3本塁打、17打点とまずまずの成績を残したが、シーズン後、戦力外通告を受け、1度も1軍の打席に立つことなく、24歳で現役引退となった。

 

 その後、札幌のラーメン店で修業、訪問販売員、広告代理店など職を転々とし、会社員時代に漫画家・水島新司氏の誘いで草野球チームに参加したことが、現役復帰への大きな足掛かりになる。

 

27歳にして現役復帰

 テレビ局の企画で、吉本興業の芸人チームと対戦したときに、9回にマウンドに上がった野中は138キロを計時し、周囲を驚かせた。数年間休めていた肩は、全力投球しても大丈夫なまでに回復し、自ずと「もう1度プロのマウンドに立ちたい」の思いが沸き上がってきた。

 

 阪急時代の番記者の紹介で、翌年の93年から台湾プロ野球に新規参入する俊国ベアーズのテストを受け、27歳にして現役復帰をはたした。

 

 当初は台湾で2、3年実績を残したあと、日本球界復帰のチャンスを待つつもりだったが、1年目に先発、リリーフで15勝4敗1セーブと大活躍すると、子供の頃から大ファンだった中日入団への道が開ける。

 

 翌94年2月14日、テスト生として参加したキャンプのシート打撃で打者10人を被安打1に抑え、見事合格をかち取った。

 

 そして、同年8月17日の巨人戦、チームが2対1と逆転した直後の8回からリリーフした野中は「こんな大事な場面で投げるのは、阪急時代にもなかった。(中京高で同期の広島・紀藤真琴ら)自分と同年の投手がたくさん活躍しているので、自分が彼らに負けるはずはない」と信じて投げ、8、9回を無安打無失点。通算7年目のNPB初セーブを挙げた。

 

 さらに10月8日の最終戦では、巨人と勝ったほうが優勝という“国民的行事”のV決戦で8回からリリーフ、地元・名古屋のファンの大声援を背に2回をゼロに抑えた。

 

「打たれる恐怖、四球を出す恐怖を持つな」

 だが、星野仙一監督時代の96年は、登板3試合と出番が激減し、オフに2度目の戦力外通告を受けてしまう。翌97年、「これが本当の最後の最後」とヤクルトの入団テストを受け、“野村再生工場”でラストチャンスを貰った。

 

 同年5月27日の横浜戦。0対2の5回2死一、二塁からリリーフした野中だったが、最初の打者・ローズに四球を与え、満塁とピンチを広げてしまう。そのとき、ユマキャンプで野村克也監督が口にした言葉が脳裏に浮かんできた。

 

打たれる恐怖、四球を出す恐怖を持つな」。阪急時代にも味わった“恐怖”を瞬時に払拭した野中は、次打者・駒田徳広を左飛に打ち取り、ピンチを切り抜けると、3対2と逆転した直後の7回も無失点で抑え、ドラフト指名から14年後のNPB初勝利を手にした。

 

今日は全員から貰った勝ち星です。つらかったのは、(阪急退団後)野球がしたくてもできなかったこと。これ以外の苦しみはなかった」と感涙にむせびながら、波乱万丈の野球人生を振り返った32歳の遅咲きヒーローは、同年44試合に登板し、チームの優勝、日本一に貢献した。

 

 NPB通算2勝5敗4セーブで現役引退後、2018年に甲子園出場を目標に出雲西高野球部監督に就任。翌19年秋の中国大会では8強入りをはたしている。

 

 

 

 


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