ブルペンで見届けた甲子園は「正解です」
視聴率50%超…伝説目撃に「僕は無理」
金石昭人氏はPL学園3年夏に背番号「10」でベンチ入りした
高校野球の歴史に伝説を作った。広島、日本ハム、巨人の3球団で20年間プレーし、通算72勝80セーブをマークした野球解説者の金石昭人氏は、PL学園(大阪)3年の夏に全国制覇を果たしたメンバーの一員だった。「僕は甲子園では1球も投げてないんですけど。あの大会は凄かった。“逆転のPL”で騒がれましたからね。決勝戦は視聴率が50%だったんでしょ」。謙虚に照れつつ、プレーバックした。
1978年。PL学園は西田真次投手(後に真二=元広島)、木戸克彦捕手(阪神プロスカウト部長)のバッテリーを中心に選抜ベスト8。夏も激戦区の大阪大会を勝ち上がり、代表の座を掴んだ。春はベンチ入りを逸した金石氏だったが、夏は背番号「10」を着けて夢にまで見た甲子園の土を踏んだ。
この大会は、南陽工(山口)の剛腕・津田恒美投手(後に恒実=元広島)、豊見城(沖縄)で強打の石嶺和彦捕手(元阪急、オリックス、阪神)ら注目選手が目白押し。横浜(神奈川)の愛甲猛投手(元ロッテ、中日)も1年生エースで話題になった。
PL学園は優勝候補に挙げられていた。とはいえ、控えの金石氏の希望は高校生らしく素朴かつ正直なもの。「やっぱり甲子園のマウンドで、一回は投げたいじゃないですか。投げたいのは、投げたかったですよ。でも、みんな僅差の試合。僕は無理なんで。ずっとブルペンで投げていました」。
さすがに甲子園は難敵ばかり。初戦の2回戦の日川(山梨)は、終盤まで突き放せず5-2。相手のエース石川賢は、後にロッテで最高勝率のタイトルを獲得した程の好投手だった。3回戦の熊本工大高(現・文徳)には西田が2点本塁打&完封の独り舞台で2-0。準々決勝は県立岐阜商を西田が再び完封し、1-0で逃げ切った。
金石氏の目の前には、絶対的な左腕エースの西田が存在した。「ライバル意識はありましたよ。だけど、彼は断トツで力がありました。精神的にも総合的にも。西田は本当に素晴らしかった」。自身については「僕なんかは試合慣れしてませんから。ビッグゲームの経験が少ない。要するに『打たれたら、どうしよう』とか『点を取られたら、どうしよう』と考えちゃう。だから今思えば、僕は甲子園で投げなくて正解です」。
“逆転のPL”、奇跡的な逆転勝利で全国制覇…黄金時代の幕が開いた
そしてPL学園は、ここから2試合連続で奇跡的な逆転劇を繰り広げる。
準決勝の中京(愛知、現・中京大中京)戦。0-4で9回を迎えた。金石氏でさえ「4点差だからね。半分諦めてた」のだが、相手の継投策が決まらず同点に追い付いた。延長12回に押し出しでサヨナラ勝ち。「厳しい場面でのピッチャー交代って難しいんですよ。自分じゃなくなっちゃうんです」と中京サイドを慮る。
高知商との決勝戦でも、0-2と2年生エース森浩二(元阪急、オリックス)に沈黙して最終回に入った。木戸の中犠飛で1点差に迫るも2死。それでも西田が一塁線を破る同点二塁打、柳川明弘外野手(後に社会人野球・本田技研監督)が左中間へサヨナラ二塁打を放ち、あっという間にひっくり返した。「僕は『また逆転』とは思わなかったけど、相手チームは意識してしまうんでしょうね。前日のPLの逆転ゲームが頭にありますから」。
PL学園にとって初めての甲子園制覇だった。「僕らの年代に憧れて、PLに入ろうという選手が一杯いました。伝統ができた。『PL GAKUEN』のユニホームはカッコイイと思うし、憧れますよね。ユニホームを着ただけで対戦相手は名前負けしちゃう。そういう時代でしたね」。
1981年選抜優勝の吉村禎章(巨人編成本部長兼国際部長)や“KKコンビ”の桑田真澄(巨人2軍監督)、清原和博(元西武、巨人、オリックス)らの後輩が続く礎になった。
登板機会なしも「一緒に投げている気持ち」…閉会式のTV視聴率は驚異の50.8%
優勝直後の閉会式の番組平均世帯視聴率は、NHK総合で50.8%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)を記録した。PL初優勝は熱戦の内容と同様に、数字上でも驚異的なインパクトを残している。
金石氏は当時192センチと一際目立つ長身。栄光の校歌斉唱で、主将も担っていた木戸の隣に並んだ。木戸は顔をくしゃくしゃにして号泣する。背番号「10」は、体をポンと叩いてねぎらう。さらには右腕を回して優しく肩を抱き、声を掛けた。
「あの木戸がね、ワンワン泣いているんですよ。キャプテンでやり切った。『良かったなー』って。甲子園はみんな全員で戦っているイメージでした。だから西田1人が投げていても、僕も一緒に投げている気持ちでした」
金石氏はあの夏を、あの瞬間を永遠に忘れない。
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