《独占手記》「2度の電撃解任を乗り越えて…」甲子園常連「強打の日大三」を作り上げた小倉全由監督が“引退表明”「高校野球は誰のものか?」最後に問いかけた
高校野球界の名将として知られる日大三高の小倉全由監督が3月末をもって監督を退任することがわかった。
「私が来るまでの三高は『洗練された野球』と言われていましたが、私が来て2001年の夏に全国制覇を成し遂げて以降は、『強打の日大三』と言われるようになりました。新監督はどんな野球を見せてくれるのか。私は遠くからそっと見守っていこうと考えています」(小倉監督)
小倉氏はスポーツジャーナリストの小山宣宏氏のインタビューに応じ、現在の心境について、余すことなく語った。
記録ではなく、記憶に残る監督であり続けたい
1997年春から日大三(以下三高)の監督を務めて26年。気づけばあっという間に過ぎていきました。私も昨春、ちょうど65歳の年齢を迎え、学校の教職の定年と同時に監督も退任しようと決めたのは、今から4年前のこと。一抹の寂しさもありますが、「やり切った」という達成感のほうが強くあります。
甲子園通算勝利数37、春夏合わせて甲子園出場22回(関東一で4回、日大三で18回)、夏の甲子園の優勝2回、春のセンバツで準優勝2回という記録は、「そうか」という程度で、あまり関心がありません。記録ではなく、指導した選手たちの記憶に残る監督であり続けたいという思いのほうが強かったのは事実です。
後任監督となる三木有造部長は、97年に私が三高に来たときにはまだ教職免許を取得しておらず、練習の手伝いからスタート。その後、コーチ、野球部長と、指導者としてのキャリアを順調に積み重ねてきた男です。私がこれまで築いてきた三高野球部のいい伝統を受け継ぎ、昇華させてくれるのではないかと期待しています。
指導者人生のスタート
振り返れば、私の監督人生は決して順風満帆ではなく、挫折や逆境を数多く味わいました。三高での現役時代は背番号13の控え選手で、これといって大した成績は残せずに高校野球を終えた後、日本大学に進学。
「さあこの先、どんなことをやっていこうか」
と考えていた76年秋、当時25歳の若さで三高の監督に就任した小枝守さん(のちの拓大紅陵監督。日本高等学校野球連盟技術・振興委員。2019年1月に死去)から、
「三高の野球部をコーチという立場で手伝ってもらえないか?」
と声をかけていただいたのです。高校時代の3年間、小枝さんは三高でコーチをされていたのでよく存じていましたが、控え選手に過ぎなかった私になぜ? という疑問が湧きました。思い切って「どうして私をコーチに選んだのですか?」と小枝さんに聞くと、
「君はチームで一番大きな声を出して盛り上げてくれた。そのうえ裏方の仕事も嫌な顔一つせずに、率先して黙々とこなしてくれた。だから指導者に向いているんじゃないかと思ったんだよ」
この言葉を聞いて、私が抱いていた疑問は一瞬にして吹き飛びました。
「ぜひ、やらせてください」
こうして私の指導者人生はスタートしたのです。
2年間甲子園に出場できず、急遽解任を言い渡される
いざコーチになったものの、それまでの間、指導者としてのノウハウがまったくなかったので、選手たちに素の自分をさらけ出して全力で向き合っていくことしかできませんでした。一方でとにかく結果を残さなければならないと、毎日必死になってグラウンドで汗を流していたのです。
その甲斐あってか、コーチになって3年目を迎えた79年夏、17年ぶり6度目の甲子園の切符をつかみ取ったのです。残念ながら甲子園では1回戦で天理に4対5で惜敗したのですが、「初めての夏の全国制覇も夢じゃない」と三高OBたちの期待も盛り上がっていきました。
けれどもその後の2年間、甲子園には縁がなく、81年夏の西東京予選の4回戦で法政一に完封負けを喫した直後、野球部のOBたちの話し合いで私と小枝さんが急遽、解任を言い渡されたのです。その理由は「2年間、甲子園に出場できなかったから」。
あまりにも理不尽すぎる決定に、私は憤りましたが、結論が覆るわけではないことは重々承知でしたので、大学時代、教職を取得したことを生かすべく、実家のある千葉に帰って教員の採用試験を受けて、「公立高校の監督をしよう」と考えました。
関東一で監督として就任 帝京に快勝し、初の甲子園出場を果たす
そんなある日、三高のあるOBから「関東一で野球部の指導者を探している」という話を耳にしました。当時の東東京は荒木大輔擁する早稲田実業を筆頭に、80年春のセンバツで準優勝した帝京、さらには二松学舎大付属などを中心にしのぎを削っていました。関東一は甲子園出場こそないものの、野球部を強化していきたいという話を聞いていたのです。私で力になるのならと思い、その話を引き受けたのですが、当時の関東一は負けん気の強い選手が大勢いました。私も若かったこともあり、彼らと全力で向き合い、練習に励んでいたのです。
荒木が早実を卒業してからは、「打倒帝京」に燃えていました。選手のレベルを比較したとき、明らかに帝京のほうが上でしたが、「甲子園出場を果たすには、帝京の壁を超えるしかない」、そう思って必死でした。
初めて帝京と対戦したのは、83年夏の東東京予選での決勝戦。2対3で負けました。その後、85年春の東京大会でも帝京に負け、迎えたその年の夏の東東京予選の決勝で3度帝京とぶつかりました。この前夜、帝京の前田三夫監督(当時。現帝京名誉監督)が、「関東一さんには申し訳ないけど、甲子園はウチが行きますから」とまるで勝利宣言をしているかのような言葉を聞いて、私だけでなく選手全員が発奮。翌日の決勝戦は終盤に大量点を奪って帝京に快勝し、初の甲子園出場を果たしたのです。
いざ聖地に足を踏み入れると、選手たちは初出場の気負いを微塵も感じることなく、ベスト8まで勝ち進む快進撃ぶりを見せました。マスコミからはJR総武線の新小岩駅に学校があることから、「下町の暴れん坊軍団」と呼ばれ、地元の商店街も大いに盛り上がっていました。その2年後の87年春のセンバツでも準優勝。監督として順調にキャリアを積み重ねていきました。
野球部以外の生徒と接することで、柔軟な発想を取り入れられるように
ところが、好事魔多しとはよく言ったもので、88年夏の東東京予選のベスト8で帝京に負けた後、突然の監督解任を言い渡されたのです。その理由は、「2年間、甲子園に出場できなかったから」。ああ、まただ――。私は失意のどん底に落ち込みました。
私はこのときを境に野球から離れ、一教師として一般生徒の指導にあたっていくことを決意したのですが、野球部員以外の生徒と深く接することで、初めて発見したことがありました。
野球部にいる生徒は「甲子園に行く」という明確な目標があるので、それに向かってどう鍛えていけばいいのかを考えながら指導にあたっていました。
けれども一般生徒は違います。「ああしたい、こうしたい」という明確な目標を持たずに、惰性で毎日を過ごしている者もいる。世間では「ワル」と言われているような不良の生徒たちも、「なぜ不良になってしまったのか」を深く考え、将来について明確な目標を持たせるにはどうしたらいいのか、日夜を問わず思案していた時期もありました。
私にとって彼らのことを考えて過ごしていた時期はかけがえのない財産となったと、後に気づきました。それまでの監督時代は私が主導の考え方で、ときには強引に推し進めてしまうこともありました。けれども野球部以外の生徒たちと接することで、相手を思いやり、柔軟な発想を取り入れられるようになったのです。
選手を指導する上で大切にしていたこと
もし私が野球部の監督を一度も辞めることなく、長年続けていたらどうなっていたのか。何かの拍子で部員に手を上げてしまい、それに端を発して学校全体で話し合われる問題となり、結果、野球部の監督の座を追われてしまう――。なんてことも起こりえたかもしれません。
人生で回り道をすることは決して遠回りではありません。遠回りしたことで、これまで自分が知り得なかった発見や気づきがある。そのことによって考え方の視野を広め、人間的にも成長していけるのだとしたら、回り道をすることはネガティブなことではないのです。97年に日大三高の監督に就任してから私はその思いを強くしました。
私が選手を指導していて大切にしていたことがあります。それは「伸び伸び」と「野放し」は違うということです。
甲子園で戦うとき、選手たちはこの舞台に立つために厳しい練習を積んできたという自負があります。私はどんな強豪校を前にしても、試合前に必ずこんなことを言っていました。
「投手は相手の打者に自分のボールが通用するか、真っ向勝負で挑むんだ。打者は三振を恐れずにフルスイングしてきなさい」
勝ち負けも大事ですが、それ以上に持てる力のすべてを発揮することのほうが大切だと、私は考えていました。2001年、11年と2度の全国制覇を達成しましたが、これらのときもそうでした。優勝が狙えるメンバーが揃っていましたが、「負けたら承知しないぞ」とプレッシャーをかけることなど一切なく、夢にまで見た甲子園で全力プレーできるように監督が盛り上げていく。それこそが「伸び伸び」であると考えていたのです。
間違ったマナーは野放しにしない
反対に「野放し」にしていけないのが「世間一般の常識」についてです。野球以外での日常生活における礼儀やマナーについては日頃から選手たちに口酸っぱく言い続けてきました。
一例を挙げれば「あいさつ」です。三高では選手と合宿所で共同生活を送っているため、朝になれば当然、「おはようございます」のあいさつから始まります。ところが、これが「おはようっす」「おーす」などときちんと「おはようございます」が言えない選手もいます。このようなとき、私は全員の選手を集めてこんな言葉で注意していました。
「あいさつってのは、自分が相手にいい言葉を送り、相手からもいい言葉をもらうことでお互い繋がって生きていると認識するものなんだ。だから『おはようございます』をしっかり言葉に出して言うんだぞ」
野放しにさせないのはこれだけではありません。掃除の仕方や毎日使用する洗濯機やトイレ、お風呂でのマナーにいたるまで、注意すべきケースが出てくるとその都度全員を呼んで注意するようにしていました。
全員が理解するまで注意し続けることが大切
このほかにも電車やバスなど、公共交通機関を利用する際のマナーについても話していました。監督の前では平身低頭していても、学校を離れたときに傲慢なふるまいをしていたというのでは話になりません。
このとき選手たちから「いちいちうるさいな」と思われてしまったら、なかなか注意できないもの。そこで選手に注意するときには、
「ここで注意しなければ、いつまで経っても同じ過ちを繰り返してしまう。場合によっては1人ではなく、多くの人にご迷惑をおかけするかもしれない。それなら今、私が教えてあげるべきなんだ」
という気持ちでいました。
このとき私は選手を絶対に怒鳴ったりせずに、諭すように話すことを心掛けていました。私の言葉を一度で理解する者もいれば、2回、3回と言っても聞かない選手もいた。だからと言って、「1回注意したからいいや」ということには絶対にせずに、全員が理解するまで注意し続けることが大切だと考えていたのです。
甲子園で勝ったことで多くの人からはそのことを賞賛していただきました。けれども「勝ったから素晴らしい」「負けたからダメなチームだった」ということは絶対にありません。三高野球部で2年4ヵ月の間、一生懸命悔いなく野球に打ち込む姿が見てとれれば、私は十分だと思っていました。
甲子園に出場できたチームも、そうでないチームも、日々の厳しい練習と実戦経験を積み重ねていき、課題が見つかったらどう克服していくのか。個々、あるいは選手全員で考え、練習や試合で試していく。こうしたプロセスを私は長年見続けてきたので、夏の西東京予選で負けてしまったとしても、選手を責めることは一切しませんでした。
選手たちの姿から改めて学んだこと
一方で20年の新型コロナウイルスの蔓延によって、夏の甲子園が中止になったときには心を痛めました。彼らが1年生のとき、3年生が夏の甲子園でベスト4まで進んだ姿をアルプススタンドから見届けていました。「オレたちが最上級生になったら絶対に甲子園に出場するぞ」と意気込んで練習に励んでいた折、不測の事態が発生したのですから、彼らの心中を察するとやるせない思いに駆られてしまいます。
甲子園中止の代わりに東京都独自の代替大会が開催されることが決まった後、選手全員を前にこう言いました。
「いつもの年と同じように熱い気持ちで夏を戦おうじゃないか」
結局、ベスト8で佼成学園にサヨナラ負けを喫して、3年生の夏は終わりました。合宿所に戻って私が話し出すと、3年生全員が目を真っ赤にして泣いていました。
涙を流して終わることができたのは、野球に真剣に取り組んできた証拠でもあるのです。「高校野球はこういう形でなきゃいけないよな」、選手たちの姿からあらためて学びました。
学校全体から応援してもらえるような野球部に
高校野球は誰のものでしょうか。間違っても野球部関係者だけのものではありません。かつて取手二、常総学院を率いた木内幸男さんからこんな言葉をかけていただきました。
「小倉君、学校全体が『甲子園に行ってほしい』と応援し、盛り上げてくれるような野球部を作らなくてはいけないぞ」
その通りだなと思いました。選手が「ただ野球がうまければいい」「野球部だから偉い」などと特権意識を振りかざしているようでは、野球から離れた学校生活でもいい加減なものとなってしまい、間違いなく一般生徒との間に壁や溝ができてしまいます。クラスメートと仲良くして、先生方からも好かれるような野球部員であり続けることで、みんなから「応援してあげよう」という雰囲気になっていくのです。
4月からは三木新監督の下で野球部が始動します。私が来るまでの三高は「洗練された野球」と言われていましたが、私が来て2001年の夏に全国制覇を成し遂げて以降は、「強打の日大三」と言われるようになりました。
三木新監督はどんな野球を見せてくれるのか。私は遠くからそっと見守っていこうと考えています。
◆小倉全由(おぐら・まさよし)1957年(昭32)4月10日、千葉県生まれ。日大三野球部では3年夏は背番号「13」の控え選手。5回戦の城西戦に敗れ甲子園とは無縁だった。日大の学生だった76年秋、日大三高の故小枝守監督(元拓大紅陵監督=19年に逝去)に声をかけられ母校コーチに就く。
79年夏の地方大会を勝ち抜き、同校としては62年以来17年ぶりの甲子園出場を決めた。2年後の81年夏、4回戦で法政一に敗れ、小枝監督とともに解任される。その後、日大三OB、小枝監督の尽力により、その年12月に関東第一の監督に就任。監督生活をスタートさせる。
85年夏に帝京を破り同校初の甲子園出場。87年センバツでは、立浪和義(現中日監督)擁するPL学園に決勝で敗れ準優勝。その夏の東東京大会8強、翌88年も8強で終わると、直後に監督を解任される。そこから4年間はクラス担任、学年主任を務め、野球とは無縁の教員生活を送った。92年12月に同校野球部監督に復帰。94年夏、同校としては4年ぶり、小倉監督としては85年以来9年ぶりの夏の甲子園大会出場を決める。
96年秋、当時の日大三高飯嶋生福(せいふく)理事長から同校野球部再建の要請を受ける。熟考の末、97年4月、母校の監督に就任。99年センバツで日大三の監督としては初の甲子園出場。同年夏の西東京大会も制し、同校としては85年以来14年ぶりの夏の甲子園大会出場を果たした。
関東第一では12年間で春2回(準優勝1回=87年)夏2回、日大三では26年間で春7回(準優勝1回=10年)、夏11回(優勝2回=01、11年)、両校を通算すると春9回、夏13回、計22回甲子園に出場。通算成績は春夏合わせて37勝20敗。