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高校野球あれこれ 第132号

中国大会準Vの創志学園に感じた伸びしろ 名将が示した成長を促すための“引き出し”

 

創志学園は秋季中国大会準V、伸びしろは「ここ一番」の勝負強さ

東海大相模での成功事例…好投手との対戦経験豊富さは攻撃力向上のカギ

 

 

 

 

高校野球あれこれ 第131号

2023プロ野球ドラフト会議特有の例年と変わった点について考察する

 

2023年のドラフト会議は例年といくつか相違点があったので、背景と個人的な考え含めて、考察していきたいと思う。

 

独立リーグからの支配下指名が過去最多、2位指名2人という例年にない独立リーグ指名ラッシュはなぜ起きたのか

 

2023年ドラフトにおいて、独立リーグからの指名は全体で23人(支配下6名、育成17名)と過去最高である。(2015年の12人指名が今までで一番多かったので、倍近く増加したことになる。)

 

さらに、ドラフト2位で大谷輝龍(ロッテ)、椎葉剛(阪神)が指名されており、独立リーグの選手が上位指名されるのは石森大誠(2021年ドラフト3位)以来で、2位指名に関しては又吉(2013年ドラフト2位)まで遡る。

 

ではなぜ、ここにきて独立リーグの指名が増えた、脚光を浴びたのか背景を考えていこう。

 

指名された独立リーグの選手の特徴

先述したドラフト2位で大谷輝龍(ロッテ)、椎葉剛(阪神)に加え育成ドラフトで指名された大泉、松原、芦田のように、社会人野球チームを戦力外になった、もしくは野球と社業の両立の困難により社会人チームを退団し、独立リーグのチームに入団し活躍したという経緯の選手が多い。

 

オープン戦やJABA大会を除き、基本的に負けたら終わりの社会人野球において、球は速いけど制球難等課題があり、いわゆる長所もありながら安定感に欠けた尖った選手が使いにくいという背景があって、出番を貰えず退社した選手もいる等、社会人野球向きではなかったが独立リーグで長所を伸ばし、才能を開花させたパターンも多い。

周知の通り、独立リーグの場合、社会人野球と違い高卒でも今回指名された日渡や谷口のように、1年目からNPBのドラフトで指名することができるので、1シーズン在籍しプロ注目の存在になるまで結果を残せれば、若くしてNPB入り出来る可能性がある。

独立リーグのチームは社会人野球チーム在籍の選手と違い、順位縛り等制約もなく、育成契約でも指名することが出来るのが大きなアドバンテージといえる。

 

今年のドラフトのトレンドの大学生投手も1位候補こそ多いが、2位指名以下だとがくっと質が落ち、なんと今年は育成指名もなんと昨年の3分の1である7名に終わっている(順位縛り等絡んでいそうな感じはある)。そうした市場背景も独立リーグ人気を加速させた背景があり、来年以降も今年の流れを踏襲するかというと違うと思われる。

 

そのあたりを踏まえ、前述したような尖っているけれど才能が有って若い選手が多く独立リーグから指名があったのが、今年のドラフト特有の特徴といえる。

 

 

NPBを目指す選手が社会人野球に進むことが本当に正解なのか

 

今年のドラフトで、NPBより社会人野球チームからドラフト指名された選手は14名。社会人野球豊作年とされた2017年の24名と比較すると10人も減少した。

そのうち解禁済選手が4名。(森田、糸川、又木、石黒)

少しずつではあるが、年々解禁年に指名される選手が減っている印象を受ける。

 

少し脱線したので本題に戻すと、世間一般的に「社会人野球に行けばある程度安泰が保証されていて、独立リーグに行くと生活が厳しいので、社会人野球からプロを目指した方がいい」という印象を持たれがちだが、果たして本当にそうなのか考えていく。

 

確かに、独立リーグの場合、リーグによって若干差はあるものの、だいたいの相場として月給10万程度で収入的に厳しく、野球以外のアルバイトを掛け持ちしながら生計を立てている選手が多数いて、故障した場合無給になる等厳しい条件でプロ入りを目指している選手も少なくないのが現状で大前提としてあることを先に触れておく。独立リーグNPB入りを目指すのではあれば、金銭面、時間の使い方含め自己管理が大事になる。

 

社会人野球も実態は厳しい

社会人野球チームに入れば、「戦力外通告もなく何年も野球でき、引退しても社業専属で残る安泰が保証されている」という印象を持たれがちだが、実際は違う。

 

実は、必ず正社員で採用してくれるわけではなく、採用時に契約社員でしか採用してくれない企業も存在する。

大谷や椎葉らを例に前述した通り、入ってみたら社業との両立に追われ野球にかけられる時間がない場合も企業によってはあるし、戦力外通告も世間に広まっていないだけで毎年行われており、社業専念で残る選択を出来ず会社を去ることになる選手も少なくない。

入る前に事前にこの辺り条件面を確認できればこうしたミスマッチを防ぐことはできるのだが、こうした実情は我々の就職活動と同じく、なかなか出回らないので、難しい部分もある。

 

そのような環境で大学生は2年間、高校生は3年間社業と野球を両立させた上で、先にいるチームメイトとの熾烈な争いの果てにレギュラーを勝ち取り、NPBから注目され指名を勝ち取るレベルにまで成長しないといけない。

 

もともと学生時代からプロ注目の実力こそあれど、課題克服できず、スケールも変わらないまま2年ないし3年が経過し指名漏れするケースも体感増えているように感じる。社会人野球で個々がどう成長していくかビジョンのないまま入ってレギュラーにはなれたものの、そこで止まって成長できていない選手が多いのではないか。

勿論、そうした選手が解禁年に指名漏れし、悔しさをバネにスケールアップをし後々指名されるケースもあるので、チャンスがないわけではない。

解禁年に指名される選手は年々減り、近年は阿部(オリックス)を筆頭に、今年の森田(巨人ドラフト2位)のような解禁済の選手の指名も増えているにはいるが、安泰を確保しながらNPB入りを目指すには果たして本当に社会人野球がいいのかは再考の余地があると思わされたドラフトだった。

 

 

高校生一塁手スラッガーというジャンル

近年投高打低が進むNPBにおいて、若くて沢山本塁打の打てる選手は人気カテゴリになるのではないかという見立ても多い中、今年のドラフトでは例年にない位高校生一塁手スラッガー野手に対しての評価が厳しかった。

 

BIG3と呼ばれ、2年生から注目された佐々木麟太郎、真鍋慧、佐倉が誰一人支配下で指名されず、高校通算50本塁打近く打っている一塁手スラッガータイプの高校生打者が明瀬(日本ハム4位)まで指名されなかったのは予想出来なかった出来事であった。

なぜそうだったのか個人的に考えている理由が主に2つ。

 

1つ目が

高校生でも、ファーストしか守れないのは厳しい

今までだと清宮幸太郎(現日本ハム)が7球団競合した2017年ドラフトのように、高校生時点でのポジションが一塁手メインの選手でもホームランを量産出来ていれば上位指名確実だった立ち位置の選手が、今回指名漏れ、下位指名となった。

 

それは近年プロ球団の高校生に対する見切りが早くなっていることが影響していると考えられる。

ここ数年は高校生でもある程度体が出来上がった選手が多く、伸びしろがないと判断されれば、3年で戦力外になることも珍しくない。

 

そんな中で一塁手しか守れないとなると打席を与えて短期間で一軍で出れるレベルまで育成するのも出場機会を与える上で難しく、よほど打てないと厳しいものがある。

ファーストしか出来ない→打てないと厳しいという事で、今回のドラフトは飛距離を生み出せる選手が指名されたように感じている。

 

もう一つが

佐々木麟太郎という目玉を失い、大学生投手が脚光を浴びたため

佐々木麟太郎という数年に一度レベルの傑作がアメリカの大学へ進学を選択し、目玉が大学生投手へすり替わってしまったことにより、相対的に市場価値を下げてしまったのではないかという説で、ドラフトはウェーバー順から逆算して他球団に先に取られないように欲しい選手から獲得して行く傾向になりやすく、同じジャンルからの指名が立て続けに行われがちで、今年の場合大学生・社会人投手中心に上位指名が展開され、佐々木麟太郎という目玉を失ったのは非常に大きかった。

 

阪神のドラフト舞台裏を映した動画で、ホワイトボードに「真鍋」が上位指名候補の欄に書かれていたのに、実際指名がなかったのはこうした球団各々が優先する事項と指名の成り行きによるボタンの掛け違いだったと思われる。

ドラフトは相対評価で決まると思わされた出来事だった。

 

 

以上、今年のドラフトの今までとの相違点の個人的な解釈でした。

読んでいただき、ありがとうございました!

 

 

 

 

 

高校野球あれこれ 第130号

大阪2強の明暗分かれる! 大阪桐蔭は安泰、履正社センバツ微妙に 近畿のセンバツ出場校はどこだ?

大阪桐蔭は宿敵・報徳を1点差で破り、5年連続のセンバツを確実にした

 近畿大会は2週目に入り、4強が出揃った。近畿のセンバツ出場枠は「6」で、準決勝進出チームの選出は確実になった。大阪桐蔭(大阪1位)は、報徳学園(兵庫1位)を1点差で振り切って5年連続の出場を確実にしたが、ライバルの履正社(大阪2位)は、京都外大西(京都1位)にエースが打たれ準々決勝敗退。「大阪2強」の明暗が分かれた。

大阪桐蔭は報徳に追い上げられる

 昨秋の近畿大会決勝カードで、今春センバツ準決勝でも当たった大阪桐蔭と報徳。秋は大阪桐蔭センバツでは報徳が勝って1勝1敗だった。全国を代表する強豪対決に、大阪・舞洲大阪シティ信用金庫スタジアムは多くのファンで熱気に包まれ、期待通りの熱戦となった。

 

7回、大阪桐蔭はラマルが決勝打を放つ。西谷監督は「あっさり三振もするけど、すごいホームランも打つ」と評し、前チームから4番を任せている主砲の活躍を喜んだ(筆者撮影)
7回、大阪桐蔭はラマルが決勝打を放つ。西谷監督は「あっさり三振もするけど、すごいホームランも打つ」と評し、前チームから4番を任せている主砲の活躍を喜んだ

 

 試合は2-2の同点から7回、大阪桐蔭が4番のラマル・ギービン・ラタナヤケ(2年)の2点適時打で勝ち越すも、報徳はその裏、6回まで3安打2失点の大阪桐蔭エース・平嶋桂知(2年)を救援した左腕・山口祐樹(2年)の制球の乱れにつけ込み、押し出し四球で1点差に迫る。

最後は大阪桐蔭1年生剛腕がパーフェクト救援

 しかし3番手で登板した大阪桐蔭の189センチ右腕・森陽樹(1年)が2回をパーフェクトに抑え、4-3で逃げ切った(タイトル写真)。報徳は先発の今朝丸裕喜(2年)が7回途中で10安打を浴びたが、要所でバックが堅守を見せ、大量点を許さなかったのはさすが。報徳は果敢な盗塁や犠打を絡めてよく攻めたが、あと1本が出なかった。大阪桐蔭西谷浩一監督(54)は「接戦になると思っていた。まだまだ未熟だが、向上心のあるチーム。もっとやれる」と、近畿大会&神宮大会の3連覇を見据えていた。

履正社はエースが序盤に大量失点

 一方、ライバルの履正社は、意外な展開で京都外大西に敗れた。頼みのエース・高木大希(2年)が初回からつかまり2失点。2回にも守備の乱れからリズムを失うと打者一巡の猛攻を受け、2回までで6点を失った。終盤に追い上げるも、7-10のビッグスコアになり、内容的には点差以上の完敗だった。

 

京都外大西に敗れ、肩を落とす履正社の選手たち。序盤の大量失点が響き、多田監督は「細かい攻撃ができず、相手に余裕を持たれてしまった」と悔しがった(筆者撮影)
京都外大西に敗れ、肩を落とす履正社の選手たち。序盤の大量失点が響き、多田監督は「細かい攻撃ができず、相手に余裕を持たれてしまった」と悔しがった

 

 厳しい表情で引き揚げてきた多田晃監督(45)は、「高木がこれだけ打たれたことはなかった。ここまで高木で勝ってきたから仕方ない」とエースをかばった。大阪桐蔭とは、大阪大会決勝で、内容互角の惜敗(スコア2-3)だったが、近畿大会で明暗が分かれることに。しかも最も大事な準々決勝での敗退で、センバツ出場は微妙になった。そのほかの試合結果も踏まえてそのあたりを解説したい。

近江は京都国際にサヨナラ負け

 近江(滋賀1位)と京都国際(京都2位)は予想通りの投手戦となり、9回裏に京都国際の5番・清水詩太(うた=1年)のサヨナラ打が飛び出し、1-0で京都国際に軍配が上がった。

 

サヨナラ負けの瞬間、立ち上がれない近江の捕手・高橋直希(2年)。多賀監督は「投手をよくリードした高橋の成長が大きい」と、快進撃を支える扇のカナメを褒めた(筆者撮影)
サヨナラ負けの瞬間、立ち上がれない近江の捕手・高橋直希(2年)。多賀監督は「投手をよくリードした高橋の成長が大きい」と、快進撃を支える扇のカナメを褒めた

 

 近江は、京都国際の左腕・中崎琉生(2年=主将)から再三、得点圏の好機を迎えたが決定打を奪えず、力投の西山恒誠(2年)を援護できなかった。近江の多賀章仁監督(64)は「走者を背負ってから、絶対に負けられないという中崎君の気持ちが伝わってきた」と相手を称えていた。西山はこの日もストライク先行で好投し、京都国際を7回まで3安打で二塁も踏ませなかったが、今大会18イニング目での初失点で姿を消すことになった。

170年超の歴史を持つ耐久が初の甲子園へ

 前日の1回戦で智弁学園(奈良1位)をタイブレークの末に破った須磨翔風(兵庫2位)と、社(兵庫3位)を5-4で振り切った耐久(和歌山1位)の公立対決。このカードだけ連戦となったが、両校のエースが気迫の投球を見せた。試合は初回に1点ずつ取り合い、翔風が押し気味に進行する。

 

須磨翔風は初回、4番・永光孝太郎(2年)がスクイズを決め、同点に追いつく。しかしその後の好機に1本が出ず、エース・槙野遥斗(2年)を援護し切れなかった。智弁学園撃破をどこまで評価されるか(筆者撮影)
須磨翔風は初回、4番・永光孝太郎(2年)がスクイズを決め、同点に追いつく。しかしその後の好機に1本が出ず、エース・槙野遥斗(2年)を援護し切れなかった。智弁学園撃破をどこまで評価されるか

 

 しかし耐久はその名の通りよく耐え、堅守で勝ち越しを許さず、5回に相手失策からリード奪った。耐久のエースの冷水(しみず)孝輔(2年)は10安打を浴びながらも、初回のスクイズによる1点でしのぎ、4-1で快勝した。170年を超える歴史を持つ伝統校が、ついに甲子園を現実のものとし、OBでもある井原正善監督(39)は「夢のよう。先人や先輩方につないでもらった。感謝したい」と感無量の表情だった。

試合内容だけなら履正社は厳しいか

 これで4強が決まり、大阪桐蔭、京都国際、京都外大西、耐久のセンバツ出場は確実になった。残る2校は準々決勝敗退の4校から選ばれることになる。試合内容なら報徳、近江と、連戦を考慮すれば翔風まで大差ない。いずれも投手がしっかりしていて、特に報徳と近江は県1位好材料と言える。翔風の1位校撃破は大いに称賛されるべきだが、兵庫勢での比較になれば、報徳に県大会決勝の直接対決で敗れたのが痛い。履正社は実力随一ではあるが、内容的には完敗で、近年の近畿の選考が実力優先の傾向にあることで、どれだけの評価を得られるかだろう。このあとの勝ち上がりも多少は加味されるが、近畿は、準決勝から思い切った選手起用などもあって、試合内容がかなり落ちる。準々決勝までの各校2試合が選考対象と考えるのが順当な線だろう

 

 

 

 

 

高校野球あれこれ 第129号

【ドキュメント】あの夏、大谷翔平が甲子園を震撼させた「二本のライナー」帝京・伊藤拓郎、阿部健太郎が肌で感じた「怪物の片鱗」

 

右肘靭帯の損傷が発覚して以降もバッターとして活躍を続けるエンゼルス大谷翔平。2位に10本差をつけているホームランはもちろん、3差2位の打点、3位につける首位打者のタイトル獲得も可能性があり、三冠王の期待も抱かせている。そんな大谷が花巻東高校時代に夏の聖地で残した怪物の片鱗を、対峙した選手たちが明かす。

 

スライダーにバットを止めた大谷

大谷が甲子園デビューを果たしたのは2年生時の2011年の第93回全国高校野球選手権大会。191cmの長身から最速151km/hを投じる大谷は「東北のダルビッシュ」とも称され、大会前から注目選手の1人となっていた。

 

 しかも組み合わせ抽選の結果、初戦の対戦相手が名将・前田三夫監督が、のちにプロに進むことになる伊藤拓郎(元DeNA)、松本剛(日本ハム)、石川亮(オリックス)らを率いて優勝候補に挙げられていた帝京高校に決まり、俄然、その投球ぶりに関心が高まっていた。

 

 だが、帝京のエースで2年前の大会で1年生史上最速の148km/hをマークし、同大会でも屈指の好投手と評されていた伊藤は、「大谷と投げ合うことはない」と考えていた。

 

 「怪我をしているという話を聞いていて、チームとして大谷の登板はないと予想していました。ほんの少しですが見た映像では今と違って全然、細い体でしたが一発がありそうなスイングをしていたので打者として警戒していました」

 

 大会開幕前、大谷は投手として投げられる状態であることを強調していたが、実際は岩手県大会前に発症した左太もも裏肉離れは完治していなかった。県大会の投手成績も1試合に途中登板し、1回3分の2を投げて4失点。この試合でも帝京サイドの読み通り先発登板はせず、痛み止めを飲んで「3番ライト」でスタメンに名を連ねた。

甲子園での最初の打席は2点を先制された後の1回裏、無死1、2塁。伊藤はすぐさま驚かされたという。

 

 「事前にこう攻めようというのは決めていなくて、対戦しながら苦手なところがわかればいいと思っていました。僕はスライダーが一番、自信のある球で、スライダーの反応を打者の力を推し測る基準としていました。ストライクからボールになるインコースのスライダー、これは振ってほしいと思って投げた球を、大谷は振りかけたんですがバットを止めたんです」

 

 得意のスライダーでカウントを稼げない。どうやってカウントを整えるか。なによりストレートが甘く入らないようにしないといけない。相手のウィークポイントを探るどころか、自分が考えさせられる立場になってしまった。それは名門校で1年生から主戦として投げてきた伊藤にとって稀有なことだった。結局、伊藤は大谷を歩かせてしまってピンチが拡大、二死後に同点タイムリーを浴びる。

 

聞いたことのない打球音

 第2打席はセカンドライナーに抑えた。だが、伊藤は打球を「ちゃんと覚えていない」と話す。それは致し方がないことだった。見えたのは打った瞬間だけだったのだ。

 

 「僕の高校3年間で一番速い打球だったと思います。打たれてセカンドの方に飛んだというのはわかったんですけど、セカンドのどのあたりかもわからなくて、後ろを振り向いたら阿部(健太郎)が捕った後でした。あれはすごかったです」

 

 この痛烈なライナーについて、監督の前田は自身の著書で「長い高校野球監督生活の中で唯一、目で追うことができなかった」と回顧。ずば抜けた運動神経の持ち主の阿部健太郎だったから捕球できたとも付け加えている。その阿部は、まず音におののいたと話す。

 

 「それまで聞いたことのないような打球音で、あんなにバットの芯の中の芯を食って、あんなに速い打球というのは記憶にないです。ほとんど動いていない。動く時間もなかったですね。しかも打球が二塁の審判に重なってしまった。打った瞬間は、あっ、セカンドライナーが来たと思って、打球が消えて、感覚的にグローブを出したら入っていた」

 

 たった2打席で歴戦の強者たちに忘れることのできないほどのインパクトを与えた大谷は、さらに4回表。「投げられないと判断したときはすぐに伝えること」を佐々木洋監督との条件にマウンドに上がる。

 

 「登板してきたことにびっくりして、投球練習を見て、また驚きました。太ももの影響からか、上体だけで投げている感じなのに140km/h中盤は出ているように見えました」(伊藤)

 

ストライクのストレートに腰が引ける

 場面は一死1、3塁。打席には4番の松本剛。初球のストレートを打って出てライトへの犠牲フライとなる。球速表示は148㎞/hだった。

 

 「コンディションが悪く手投げみたいな投げ方で、そのスピードですからね」

と言う阿部だが、大谷からは2安打をマークしている。

 

 「大谷は真っすぐが一番の武器だろうと思ったので、それに打ち負けていたら話にならない。差し込まれないようにという意識で打席に入っていました。1本目は追い込まれてからのフォークに合わせただけですし、2本目は真っすぐをレフトに弾き返せましたが、僕の打席では力をセーブしていたのか、球速は140km/h前半くらい。僕の後を打つ拓郎さんや松本さんのときはもっと速かった。打者や場面によってギアチェンジしていたと思います」

 

 阿部の後ろの3番を打っていた伊藤もストレートに狙いを絞っていた。

 

 「松本が初見で前に飛ばせたということもあってストレートのほうがチャンスがあるとは思っていたんですが、同点の5回二死1、2塁の最初の対戦で3球目にスライダーが来て、キレがすごくて変化球は打てないなと思いました。以降はずっとストレートだけ狙っていました」

 

 カウント1ボール2ストライクからの次の球は、そのストレート。ギアを上げて投じた球は球速表示の147km/h以上の勢いがあった。伊藤は恥ずかしそうに振り返る。

インコースは待っていなかったんですけど、体のほうにストレートが来たと思ってびっくりして腰が引けちゃったんです。でも、実際にはストライクを取られるかなというコースを通って、自分でも見逃し三振だと思いました」

 

 しかし、結果はボール判定。大谷はストレートを続ける。スコアボードには05年夏の田中将大(駒大苫小牧高校)以来2人目となる2年生としての甲子園最速タイの150km/hが表示された。伊藤が食らいつくように弾き返した打球はサードを強襲してヒットとなった。

 

群を抜く投手としての総合力

 「速かったです。当てるのに必死でした。でも、ちょっと曲がったようにも見えて、カットボールみたいな球なのか、真っすぐなのか、わからなかったです。だからあとで150㎞/hって聞いて、えっ、真っすぐじゃないかもしれないのにそんなに出ていたんだと」

 

 投球以外にも伊藤を慌てさせたのが、牽制球だ。一塁走者だった伊藤が大谷の牽制に対して手から帰塁する場面があった。

「牽制の動作もめちゃくちゃ速かったです。ヘッドスライディングで戻ったことはなかったんですが、速すぎてヤバいと思ってとっさに手から帰りました」

 

 阿部の目にはフィールディングの速さが焼きついている。

 

 「7回表に無死二塁で水上(史康)さんが送りバントをしたんです。ピッチャー前でしたが、あんなに無駄のないフィールディングで、サードが一番タッチしやすいところに正確な送球をしてみせた。しかもその球が速くて140km/hは出ていたと思います。サードがグローブを置いて待っているくらい余裕のアウト。かなり器用だなと思いました」

 

 随所で帝京ナインを驚かせ続けた大谷だが、伊藤も阿部も、もっともインパクトの強かったプレーについては、同じ場面を挙げる。

 

レフト前ヒットがホームラン?

 花巻東が2点を追う6回裏、無死2、3塁。帝京のピッチャーは伊藤からバトンを受けたサウスポーの石倉嵩也。外角のストレートを逆らわずに打ち返し、レフトフェンス直撃の同点タイムリーヒットが、それだ。まずは阿部から。

 

 「帝京を卒業後、東洋大NTT東日本でもプレーさせていただきましたが、左バッターがあの低い打球角度で、フェンス直撃まで持っていくというのは社会人時代を含めても見たことがありません。打った瞬間は、あっ、レフト前ヒットだ。同点にされてしまうかもと思った。でも、打球がどんどん伸びて、あれ? って。えっ、ホームランまでいっちゃうのって。フェンス直撃でよかったって。投げた石倉だってJR東海でもやったピッチャーでアウトコースへのいい球だったんです。打球の速度も度肝を抜かれました。あれ以上の打球は見たことがありません」

 

 ファーストのポジションに変わっていた伊藤も同じ言葉を使った。

 

 阿部は大谷と同学年だが、その存在感に目を引かれていた。

 

 「2年生でしたけどチームの太い柱のような、まとめているのが大谷だったと思います。大谷に回せばなんとかなるみたいなものが花巻東にはあるように感じました。そして、実際に結果を出してみせる。プロでも活躍すると思っていましたが、常に想像以上、期待以上のものを残し続けていますよね。僕は一昨年、ユニフォームを脱いで今は社業を頑張る立場ですが、大谷の活躍に元気や勇気、感動をもらっています」

 

 逆境を乗り越え、周囲の期待に応え続ける姿は当時も今も変わってはいない。

 

 

 

 

 

高校野球あれこれ 第128号

佐々木麟太郎の米留学決断 「早熟化」も進むメジャー目指す新たな道となる可能性

 

高校通算140本塁打を誇る花巻東(岩手)の佐々木麟太郎内野手(3年)が10日、米国の大学留学を決断した。プロ志望届の提出期限が12日、ドラフト会議が26日に迫る中、高校最後の公式戦となった履正社(大阪)戦後に報道陣から進路について問われ「現段階ではプロ志望届を出さずにアメリカの大学に行くことを考えている」と海を渡る姿勢を示した。進学先は未定だという。

 

  ドラフト上位候補の佐々木麟太郎が、米国の大学への進学を決意した真意は、現時点では定かではない。ただ、将来的にメジャーを目指すうえで、NPBを経ない新たなパターンとなる可能性も出てきた。

 

 日本でプロ入りした場合、現制度では1軍昇格後、海外FA権取得まで9年を要する。ポスティングでの挑戦にしても、周囲から認められる好成績を残す必要があり、挑戦時期として不透明な要素が多い。だが、米国の強豪大学で結果を残せば、MLBドラフトで指名される可能性は膨らむ。菊池、大谷の後輩でもある佐々木麟の場合、早い時期からメジャー各球団が注目してきたこともあり、順調にスケールアップすれば、上位指名すら夢ではない。

 

 無論、米ドラフトで指名されたとしても、メジャーへの道は簡単ではない。だが、かつては最低でも「大卒3年、高卒5年」と言われた関門も、近年はマイナーの育成システム改善もあり、トッププロスペクトへの期待値が格段にアップ。オリオールズの遊撃ヘンダーソン、レンジャーズの左翼カーターは、いずれも高卒後、21歳でデビュー。昨年ドラフト全体1位で指名されたオリオールズのホリデーは、来季、20歳でメジャーデビューすると見込まれており、球界全体で「早熟化」が進んでいる。

 

 米大学に進学すれば、言語や文化をはじめ、将来的な米国生活への適応にも障害が軽減されることも見逃せない。これが近道なのか遠回りなのかはわからない。佐々木麟が「誰も通ったことがない道」に足を踏み出すとすれば、「二刀流」を貫いてきた先輩大谷の心意気を受け継いでいるように思えてならない。

 

 ◆米国の大学野球 全米大学体育協会NCAA)のディビジョン1(1部)だけで約300チームが所属。うち8チームが6月にオマハで開かれる「カレッジワールドシリーズ」に出場する。米国では高校野球より人気があり、今年は過去最多の39万人(1試合平均2万4600人)の観客を集めた。MLBのドラフトには4年制大学では3年生を修了、または21歳になった時点で指名対象となり、4月生まれの佐々木麟は25年ドラフトで対象になる。

 

 

 

 

高校野球あれこれ 第127号

草野球から“奇跡の復活”、「元ドラ1」野中徹博が歩んだ「不屈の野球人生」

 

甲子園では球史に残る投手戦

昨オフも12球団で計129人が戦力外通告を受けた。近年は独立リーグなどでプレーを続け、NPB復帰をはたした例もあるが、それほど多くはない。そんな厳しい実力社会において、1度は現役を引退しながら、5年後にNPB復帰をはたし、通算10年目で初勝利を挙げた“不屈の男”がいる。

 

男の名は野中徹博。中京高(現・中京大中京)エース時代に春夏3度の甲子園に出場し、1982年は春夏ともにベスト4、翌83年夏は準々決勝の池田高戦で水野雄仁(元巨人)と球史に残る投手戦を繰り広げたことを覚えているファンも多いはずだ。

 

 だが、ドラフトでは、セ・リーグの球団を希望していたにもかかわらず、「知らない球団だった」という阪急に、高野光(元ヤクルトなど)の“外れ1位”で指名され、戸惑いを覚えたという。

 

 迷った末に入団し、背番号18を貰ったが、プロ1年目からいばらの道が続く。豪快に腕を振って投げ下ろすフォームをコーチに改造され、新しいフォームで投げつづけているうちに肩を壊してしまったのだ。

 

 2年目の1985年も肩をだましだまし投げ、プロ初先発のチャンスを貰った5月8日のロッテ戦で6回2死まで2失点と好投したが、同18日の西武戦では2回途中5失点KOされるなど、結果を出せず、6月に2軍落ちした。

 

ドラフト1位」(沢宮優著、河出文庫)によると、そんな苦闘の日々を、本人は「ここで真っ直ぐでガーンと行ってみよう。そういう度胸が無くなってきた。怖いから逃げてしまうのです。オレの真っ直ぐを打ってみろ!  と思えなくなって、コースを狙う。ボールになる。肩を壊しているから、速球も以前ほど速くない。マウンドという舞台に上がる前に、自分の精神的な弱さが出てしまった」と回想している。

 

漫画家・水島新司氏の誘いで草野球チームに

 同年オフ、選手生命を賭けて肩を手術したが、元には戻らなかった。練習生を経て、88年秋から内野手に転向し、心機一転、背番号を「0番」、登録名も「野中崇博」に変えた。

 

 球団名がオリックスに変わった翌89年は、6月9日に発表されたオールスターファン投票の第1回投票結果で、1軍実績のない野中がパ・リーグ三塁手部門でトップになる珍事が話題になった。

 

 両リーグとも2軍の選手が上位にズラリと並ぶ不思議な投票結果は、「今の時期なら500票前後でトップに立てる」と誰かが意図的に大量投票したようだが、このとき、野中が内野手に転向した事実を初めて知ったファンも少なからずいたかもしれない。

 

 同年、野中はウエスタンで49試合に出場し、打率.327、3本塁打、17打点とまずまずの成績を残したが、シーズン後、戦力外通告を受け、1度も1軍の打席に立つことなく、24歳で現役引退となった。

 

 その後、札幌のラーメン店で修業、訪問販売員、広告代理店など職を転々とし、会社員時代に漫画家・水島新司氏の誘いで草野球チームに参加したことが、現役復帰への大きな足掛かりになる。

 

27歳にして現役復帰

 テレビ局の企画で、吉本興業の芸人チームと対戦したときに、9回にマウンドに上がった野中は138キロを計時し、周囲を驚かせた。数年間休めていた肩は、全力投球しても大丈夫なまでに回復し、自ずと「もう1度プロのマウンドに立ちたい」の思いが沸き上がってきた。

 

 阪急時代の番記者の紹介で、翌年の93年から台湾プロ野球に新規参入する俊国ベアーズのテストを受け、27歳にして現役復帰をはたした。

 

 当初は台湾で2、3年実績を残したあと、日本球界復帰のチャンスを待つつもりだったが、1年目に先発、リリーフで15勝4敗1セーブと大活躍すると、子供の頃から大ファンだった中日入団への道が開ける。

 

 翌94年2月14日、テスト生として参加したキャンプのシート打撃で打者10人を被安打1に抑え、見事合格をかち取った。

 

 そして、同年8月17日の巨人戦、チームが2対1と逆転した直後の8回からリリーフした野中は「こんな大事な場面で投げるのは、阪急時代にもなかった。(中京高で同期の広島・紀藤真琴ら)自分と同年の投手がたくさん活躍しているので、自分が彼らに負けるはずはない」と信じて投げ、8、9回を無安打無失点。通算7年目のNPB初セーブを挙げた。

 

 さらに10月8日の最終戦では、巨人と勝ったほうが優勝という“国民的行事”のV決戦で8回からリリーフ、地元・名古屋のファンの大声援を背に2回をゼロに抑えた。

 

「打たれる恐怖、四球を出す恐怖を持つな」

 だが、星野仙一監督時代の96年は、登板3試合と出番が激減し、オフに2度目の戦力外通告を受けてしまう。翌97年、「これが本当の最後の最後」とヤクルトの入団テストを受け、“野村再生工場”でラストチャンスを貰った。

 

 同年5月27日の横浜戦。0対2の5回2死一、二塁からリリーフした野中だったが、最初の打者・ローズに四球を与え、満塁とピンチを広げてしまう。そのとき、ユマキャンプで野村克也監督が口にした言葉が脳裏に浮かんできた。

 

打たれる恐怖、四球を出す恐怖を持つな」。阪急時代にも味わった“恐怖”を瞬時に払拭した野中は、次打者・駒田徳広を左飛に打ち取り、ピンチを切り抜けると、3対2と逆転した直後の7回も無失点で抑え、ドラフト指名から14年後のNPB初勝利を手にした。

 

今日は全員から貰った勝ち星です。つらかったのは、(阪急退団後)野球がしたくてもできなかったこと。これ以外の苦しみはなかった」と感涙にむせびながら、波乱万丈の野球人生を振り返った32歳の遅咲きヒーローは、同年44試合に登板し、チームの優勝、日本一に貢献した。

 

 NPB通算2勝5敗4セーブで現役引退後、2018年に甲子園出場を目標に出雲西高野球部監督に就任。翌19年秋の中国大会では8強入りをはたしている。

 

 

 

 


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高校野球あれこれ 第126号

報徳学園・今朝丸が忘れられないマウンド 

夏の苦い記憶から殻を破れるか

 

長身で器用、ドラ1候補に投げ勝つポテンシャル

報徳学園の今朝丸は今春のセンバツで4試合に登板して決勝進出に貢献した 

 報徳学園今朝丸裕喜(2年)はセンバツで4試合に登板。春の県大会でエース番号を背負い、グングンと状態を上げた。だが、夏の大会中に思わぬ事態となり、結果がなかなか伴わなかった。

 マウンドでは表情を崩さず、黙々とミットをめがけて腕を振る。1年秋からマウンドに立ち、スライダー、カットボールなどをうまく操って三振を奪い、当時からストレートは140キロ近いスピードを誇っていた。185cmという長身からも未知数のポテンシャルの高さを感じさせる。

 今春のセンバツでは4試合13回1/3を投げ、12奪三振8失点。3回戦の東邦戦で甲子園初登板、しかも初先発。強力打線を相手に6回2/3を投げ2失点にまとめた。準決勝の大阪桐蔭戦では同点となった8回から3番手として登板し、2回を1安打無失点。決勝進出に弾みをつけた。

 センバツ直後の春の県大会ではエースの盛田智矢(3年)がケガでベンチを外れ、背番号1を背負った。だが、「盛田さんがケガをして自分が代わりに背負っただけなので、自分が勝ち取った背番号ではないです」と謙そんする。県大会決勝の滝川二戦では先発し、7回を6安打1失点。昨秋の県大会準々決勝で接戦の末破った相手がリベンジに燃え、最後まで食らいついてきたが、サヨナラ勝ちへ良い流れをもたらした。

 今朝丸の良さをあらためて大角健二監督はこう明かす。

「角度のあるストレートがあって、フォークや横のスライダー、カーブなどもある。調子が良ければインサイドにストレートを投げられて、外にスライダーも投げられるし、器用なところもあるんです」

 6月の練習試合では、今秋のドラフト候補の最速152キロ左腕・東松快征(3年)擁する享栄戦に先発し、1失点ながら15奪三振で完投勝ち(2-1)。初回にいきなり1点を失うも、2回以降は大きなピンチを作ることはなかった。この日は制球力も良く、フォークやスライダーのキレ味が抜群。無駄な球がほとんどなかった。安定感が増し、このまま夏の大会に向けて一気に状態を上げていくはずだった。

 迎えた夏の兵庫大会。3回戦の滝川戦で2番手として初登板。先頭打者からいきなり3連打を浴びるなど、5安打3失点と振るわず、わずか2回で降板した。大会中に患ったぎっくり腰が原因だったが、試合後は反省の弁ばかりを口にしていた。

 そして、今朝丸にとって忘れられないマウンドが、この夏にある。

特にあの1球は今でも頭の中から離れません
 

今秋の背番号「10」に隠れた、指揮官の決断

今朝丸は新チームで背番号10を背負ってマウンドに立つ 

 夏の県大会5回戦。報徳学園と実力は県内で双璧とされている神戸国際大付と激突した。

 1-1の同点で迎えた4回。1死一塁からマウンドを受け継いだ今朝丸だったが、3番の久保勇吹に適時打を許して勝ち越された。さらに7回には二死二塁のピンチで6番の井関駿翔に投じたフォークを捉えられ、レフトへ運ばれた。二塁走者が生還し、結局この3点目が決勝点。チームも敗れ、春夏連続の甲子園出場は途絶えた。

「自分があの場面でもっとしっかり投げ切っていればって、今でも思っているんです」

 試合後は涙が止まらず、先輩の夏を終わらせてしまったことを悔やみ続けた。

 そして、新チームでの今朝丸の背番号は「10」だ。エース番号は昨秋から共に公式戦のマウンドを踏み、切磋琢磨してきた間木歩がつけ、主将も務める。

 間木は今夏の県大会3試合で登板し、短いイニングとはいえ無失点。センバツでもハートのこもったピッチングで、今朝丸より多い17イニングを投げた。2人が任せられるのは中継ぎ、リリーフとほぼ同じ。前チームでは今朝丸が10番、間木は11番だったが、新チームでの間木は主将としてもチームの中心的役割を担うようになった。

 ポテンシャルから見ても、今朝丸が1番をつけてもおかしくなかったが、大角監督の決断の裏にはこんな事実があった。

センバツが終わってから、どうも緊張感のない試合があったんです。大舞台を経験して自信にしてくれるのはいいけれど、過信しているような姿を何度か見ていて……。先頭打者から簡単に置きに行って打たれることもありました。俺がやったる、とかそういう気持ち的な部分があまり見えてこなかったのもあったんです」

 前チームはエースの盛田も含め、継投で勝ち上がることがほとんどだった。昨今は、1人のエースが投げ切るより継投することが投手の負担軽減にもつながりプラスになることは多い。だが、それが故の“弊害”を大角監督は口にする。

「分業制で投げると、逆に言うと“どうせ自分はどこかで投げられるし”みたいな甘い考えになっているようにも見えました。前のチームだったら、盛田が投げない時は“盛田さんにいい形でつなぐんだ”みたいな謙虚なところもありましたけれど、今はそんな感じでもなくて。ダブルエースとして投げてくれたらそれに越したことはないですけれど、僕は“エースは1人でええんやぞ”と言っています」

 この秋は間木、今朝丸が県大会で交互にマウンドに立っている。県大会、2回戦の松陽戦。先発のマウンドに立った今朝丸は5回を投げ1安打無失点。この日はキレのあるスライダーを武器に7個の三振を奪った。

「今日はローボールもうまく使って抑えることができました。(8月に行われた)地区大会ではフォームが安定していなくて調子が上がらなかったのですが、最近ようやく良くなってきました」

 体重は夏から3キロアップし、現在は74キロ。下半身周りが少し太くなったようにも見えるが、まだ体の線は細い。それでもストレートの威力は徐々に上がっており、現在の自己最速は144キロまで伸びた。

 そして、今週末の準々決勝でいよいよ夏の再戦・神戸国際大付との試合が控える。神戸国際大付はこの夏も主戦級でマウンドに立った同じ学年の最速148キロ右腕・津嘉山憲志郎がエース番号を背負い、再び立ちはだかる。ここで夏に超えられなかった壁を突破しなければ次には進めない。

「俺がやったるんや、という気持ちをもっと見せて欲しい」という指揮官の言葉に背番号10は奮起するのか。この秋、ひとつ目のヤマとなる決戦で、殻を破る右腕の姿に期待したい。

 

 

 

 

高校野球あれこれ 第125号

馬淵監督「12万8000人の高校球児の代表として世界大会に臨めるチーム」世界一の選手たち労う【U-18日本代表会見】

 

 

野球日本代表「侍ジャパン」U-18 代表 優勝記者会見

 

WBSC U‐18W杯の決勝で台湾を下し、悲願の初優勝を果たした野球のU‐18日本代表が11日に帰国し、会見した。

 

スモールベースボールを掲げ、決勝では3連続バントで逆転に成功した日本代表。チームを率いた馬淵史郎監督は「高校野球の代表が、ああいう野球をやれば世界的に通用するんだということを示せたということは本当に良かったと思う。3人のコーチの方々、アシスタントコーチ、選手の頑張りによってこういう結果になって本当に嬉しく思っております」と大会を振り返った。

 

「最初からチーム力で勝つということをずっと目標にして選手たちはやってきた」と語ったのは小林隼翔主将(広陵)。「選手たちだけじゃなくて、サポートの方だったりとか、現地で応援してくださった方、日本でテレビ越しで応援してくださった方たちがいての初優勝。空港に帰ってきてたくさんの方に迎え入れていただいた時に実感しましたし、すごいありがたい」と感謝を述べた。

 

9試合すべてに出場し、24打数13安打で打率.542、首位打者を獲得した緒方漣横浜高校)。 MVPにも選出され、最多得点、ベストナイン二塁手)のタイトルと併せ4冠に輝いた。「たくさんの賞をいただいたんですけど、その裏にはたくさんのサポートだったり、声援だったり、いろいろな方に支えられての賞だと思うので、支えてくれた方々に感謝したいなと思います」とコメント。今夏の甲子園を制した慶応から唯一メンバー入りしていた丸田湊斗(慶応)は「最高の経験をさせていただいて幸せ者だと思う」と笑顔を見せた。

 

「野球はピッチャーだなとつくづく思いました。最後の試合は前田君が頑張って投げてくれた。投手がよければ勝負になるというふうに思ってます」と馬淵監督は投手陣を労った。

 

最後の夏は甲子園出場を逃したが、今大会の優勝投手となった前田悠伍(大阪桐蔭)は3試合16回2/3を投げ防御率0.42をマーク。「優勝に導くことができて嬉しく思う。世界一はなかなか経験できない。これからの野球人生においても大きいこと。いいように生かすのは自分次第」と今後の活躍を誓った。先発投手部門のベストナインに選出された東恩納蒼(沖縄商学)は「やるべきことをしっかりやろうと臨んだ結果、いい結果が残せたのでよかった。それよりも世界一になれたのは自分の中で一番うれしい」と喜んだ。

 

最後に「12万8000人の高校球児の代表として世界大会に臨めるチームだという気持ちを持っていた。本当にいいチームだなと思っていた」と選手たちを称した馬淵監督。「こういう経験をして日本の野球プロにいける選手もいるかもしれない。全国のリーダーになれるようなプロアマ問わず、そういった選手になってもらいたい」と今後の選手たちの活躍に期待を込めた。

 

【今大会の日本代表】

 

■1次ラウンドB組

1日 日本 10ー0 スペイン

2日 日本 7ー0 パナマ

3日 日本 4ー3 アメリカ  

4日 日本 10ー0 ベネズエラ

5日 オランダ 1ー0 日本

 

■スーパーラウンド

7日 日本 7ー1 韓国 

8日 日本 10ー0 プエルトリコ

9日 台湾 5ー2 日本

 

■決勝

10日 日本 2ー1 台湾

 

 

 

 

 

高校野球あれこれ 第124号

江川卓が「僕の高校時代より速い」と評した右腕は? 甲子園で剛腕披露も、プロで苦しんだ「未完の大器」たち

 

高校生投手の歴代最速は、2019年に大船渡・佐々木朗希(現ロッテ)がマークした163キロ、甲子園大会では01年に日南学園寺原隼人(元ソフトバンク、横浜など)が記録した158キロがトップ(いずれもスカウトのスピードガンが計測)。この両人をはじめ、ランキング上位の投手の多くがプロで活躍しているが、その一方で、プロでは“未完の大器”で終わった者も少なくない。

 

今から40年以上前、プロも顔負けの最速149キロをマークしたのが、秋田商の189センチ右腕・高山郁夫(元西武、広島など)だ。

 

 1980年夏の甲子園、高山は初戦の田川戦で初回の先頭打者にいきなり144キロを投じると、3番打者への6球目、外角低めが149キロを計測した。

 

 当時はプロの現役投手でも、前年の79年は中日・小松辰雄の150キロ、80年は巨人・江川卓の149キロが最速。二人とも「信じられん。僕の高校時代は149キロなんてなかった」(小松)、「驚異的なスピードですね。おそらく僕の高校時代より速いのでは」(江川)と目を丸くした。ネット裏のスカウトからも「将来の20勝投手」(ロッテ・三宅宅三スカウト)、「ナンバーワン」(西武・宮原秀明スカウト)と絶賛の声が相次いだ。

 

 だが、同年のセンバツで右足親指付け根の骨が砕ける重傷を負った高山は、手術を必要としており、手術をすれば、快速球が投げられなくなる可能性もあった。

 

 さらに田川戦で無理をしたことで、肩と背筋に張りが出て、3回戦の瀬田工戦では精彩を欠いたまま0対3で敗れた。

 

「僕としては野球を続けたい」と進路に悩んだ高山は、面識のあった西武・根本陸夫監督に相談し、「(手術しても)何年でも待つ」と約束されると、日本ハムの1位指名を断って、西武系列のプリンスホテルに入社。手術後、リハビリを経て、84年のドラフト3位で西武に入団した。

 

 だが、高校時代の球速は戻らなかった。そこで、技巧派に活路を求め、89年に5人目の先発として自己最多の5勝を挙げたが、12年間通算12勝12敗と期待ほど活躍できなかった。

 

しかし、これらの経験は現役引退後、指導者として生かされることになる。06年にソフトバンクの2軍投手コーチに就任した高山は、09年から1軍投手コーチになり、11年にチーム防御率を12球団トップに押し上げた。

 

 さらに18年にオリックスで2度目の1軍投手コーチになると、強力投手陣を育て上げ、リーグ2連覇と昨季の日本一に貢献。何十年という長い歳月で見れば、故障を抱えたまま高校からプロ入りするよりも、充実した野球人生になったと言えそうだ。

 

 09年夏の甲子園で1年生投手の最速記録を塗り替え、「2年後のドラフト1位」と注目されたのが、帝京・伊藤拓郎だ。

 

 2回戦の敦賀気比戦の9回2死、リリーフで甲子園初登板をはたした伊藤は、4球目と5球目に147キロを計時。05年に大阪桐蔭中田翔(現巨人)がマークした1年生の大会最速記録に並んだ。

 

 さらに3回戦の九州国際大付戦でも、歴代単独トップの148キロをマーク。「今の実力でもドラ1クラス」とプロのスカウトを色めき立たせた。

 

 だが、その後は球速にこだわってフォームを崩し、肘などの故障も追い打ちをかけて伸び悩んだ。3年夏の甲子園でも、1回戦の花巻東戦で、大谷翔平(現エンゼルス)に四球と死球を与え、4回途中5失点。1年時の輝きを取り戻すことができなかった。

 

 それでも伊藤は「プロ1本」に絞り、ドラフト当日を迎えた。なかなか名前を呼ばれず、「もう指名はない」とあきらめかけた矢先、12球団最後の72番目に横浜が9位指名。感激のあまり号泣し、「命を懸けるつもりでやる」と飛躍を誓ったが、夢は叶わなかった。

 

 経営母体がDeNAに変わった翌12年10月5日の巨人戦で1軍デビュー、同8日の広島戦でプロ初ホールドを記録も、2年目以降は出番がないまま、14年オフに戦力外となった。

 

 その後はBC群馬でNPB復帰を目指し、オーストラリアのウインターリーグでも活躍したが、現在は「年々向上心を持って、1年でも長く野球をやりたい」と社会人の日本製鉄鹿島でプレーを続けている。

 

最速147キロ左腕として花巻東大谷翔平大阪桐蔭藤浪晋太郎(現オリオールズ)とともに“ビッグ3”と並び称されたのが、愛工大名電濱田達郎だ。

 

 12年のセンバツでは、1回戦の宮崎西戦で14三振を奪うなどの快投で8強入り。夏の甲子園は不調で初戦敗退も、大谷、藤浪とともに選ばれた18U世界選手権では最速146キロをマークし、同年のドラフトで地元・中日に2位指名された。

 

「ファンの方々から“濱田が投げたら勝てるぞ”という投手を目指していきたいと思います」と誓った濱田は、2年目の14年5月7日の阪神戦で初先発初完封の快挙を達成し、先発ローテ入りすると、7月までに5勝を挙げた。

 

 だが、8月に左肘靭帯損傷が判明し、以後、相次ぐ故障やサイド転向、2度にわたる育成契約など、苦闘の日々が続いた。

 

 そして10年目の昨オフ、「ケガ続きでリハビリしては同じことの繰り返しで苦しかった。球団に待ってもらって本当に感謝しています」と通算28試合、5勝7敗で現役引退。「ケガさえなければ、今頃ドラゴンズのエース格だったろうに」と惜しむファンも多い。

 

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高校野球あれこれ 第123号

「サインばれているのかな」

仙台育英“じつは超不利だった”日程・相手…あの決勝前、須江航が初めて吐いた弱音「エネルギーが尽きてきました」

 

肌が弱いのだろう、日焼けで赤く腫れた顔がいつも以上に痛々しかった。

 

「そろそろエネルギーが尽きてきました。あと1試合ですけど、東北6県のみなさんや、宮城のみなさんは、明後日の2時、西の甲子園の方にパワーを送ってもらえたら、みなさんの気持ちを持って戦いたいと思います」

 

仙台育英の須江航は、決勝進出を決めた後のインタビューで、こう声を振り絞った。今大会、初めて吐いた「弱音」と言っていいかもしれない。

 

今まで見たどの監督とも違った

 須江は今まで見たどの監督ともタイプが違った。どんな試合の後でも快活で、雄弁だった。そして、プラス思考の塊だった。

 

 3回戦の履正社戦では、3回にエラーが3つも集中した。ただ、その回は幸いにも1失点でしのいだ。とはいえ、普通の指揮官だったら、次戦に向けて反省が口をつきそうなものだが須江はそうした素振りを微塵も見せなかった。

 

「あれだけミスをして1点しかとられなかった。奇跡みたいなものですよ。神様が勝てと言ってくれているのかと思いました」

 

 続く準々決勝の花巻東戦は9-0のリードで迎えた9回裏、負けているチームに過度に肩入れする甲子園特有の球場の雰囲気も手伝い、打者一巡の猛攻に遭って4失点。大量リードに守られて逃げ切ったが、後味の悪さも残った。だが、須江はあくまで前向きだった。

 

「今日もいい経験をさせてもらいました。甲子園は最終回、やっぱりこういう雰囲気になる。それを経験できたというのが大きかったです」

 

 どこまでもポジティブな姿勢を崩さない須江に、思わず、その理由を尋ねると、こんな答えが返って来た。

 

「夏だからです。夏が始まったら、怒ってもしょうがないので。楽しくやればいい」

 

大会1日目「第3試合」の過酷さ

 この夏の仙台育英は、もっとも過酷なブロックを勝ち上がってきていた。初戦は大会1日目の第3試合だった。開幕戦以上に嫌われるところだ。というのも、第2試合ならまだ開会式のあと球場内の室内練習場で待機できるが、第3試合のチームは待機場所がないためいったん球場を離れなければならない。それがとにかく面倒なのだ。

 

 仙台育英の日程的な不利は、2回戦以降も続いた。準決勝まで、第4試合、第1試合、第4試合、第1試合と、早い時間と遅い時間の試合が交互に続いた。

 

 第1試合も第4試合も気温が比較的低いため、体への負担は小さいと言われる。ただ、第4試合は開始時間が読めないのと、ホテルに帰る時間が遅くなるため、体を休めるという意味ではなかなか難しい面もある。

 

「大ラッキー」と言い切った須江監督

 今年の仙台育英の日程は、暑い時間を避けられるというメリット以上にデメリットの方が大きいように思われた。

 

 しかし、そんな不運も須江はこう言って笑い飛ばした。

 

「去年から続く大ラッキーなんですよ。去年は全部、第1試合。今年は初戦も開始が遅れたので実質、第4試合のようなもので。あとは全部、第1か第4ですから。暑い時間帯の試合が1試合もなかったんですよ」

 

 確かに、昨年の仙台育英は恵まれていた。2回戦からの登場というのも有利に働いたことだろう。日程に関して言えば、去年と今年では雲泥の差がある。しかし、須江は、それを「去年から続く大ラッキー」と称した。

 

 そんな度が過ぎるほどポジティブな男が、準決勝を終え、思わずこぼしたのが冒頭の「エネルギーが尽きてきました」という本音だった。

 

いま思う「準優勝」の価値

 今年の仙台育英は乗り越えなければならない相手チームも険しかった。1回戦から浦和学院聖光学院履正社花巻東神村学園、慶応と、名だたる強豪や勢いに乗るチームばかりだった。

 

 しかも前大会王者ということで当然、マークも厳しかったはずだ。それに対しては須江も「どのチームも情報をすごく持っている。試合の中でも、サインがばれているのかなと思うこともあった」と苦心していた。

 

 慶応の優勝は掛け値なしの快挙だった。だが、この条件下における仙台育英の準優勝は、少なくともそれと同等の偉業だった。

 

 決勝で敗れたあと、須江に、どんなに疲れていても囲み取材で嫌な顔一つせずに対応できるのはどうしてなのかと聞いた。すると、間髪入れずにこう返された。

 

「疲れてないからです」

 

 そのときはもうすでにいつもの須江に戻っていた。

 

 

 

 


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高校野球あれこれ 第122号

夏の甲子園を彩った球児たち 

今大会最注目選手の花巻東・佐々木麟太郎は3割7分5厘の結果に

 

頂点には届かずとも球児たちは最高の舞台で躍動し、印象的な活躍を見せた。表情豊かに誰よりも熱く、そして敗戦の涙すら清々しい。第105回全国高校野球選手権記念大会で心を揺さぶったヒーローたちを紹介する。

 

■佐々木麟太郎(花巻東(岩手)・内野手・3年)

ささき・りんたろう/今大会最も注目を集めた打者。甲子園では3割7分5厘と結果を残すも、長打は出ず。敗れた準々決勝の仙台育英(宮城)戦は最後まで快音響かず、最後の打者となった

 

■東恩納蒼(沖縄尚学(沖縄)・投手・3年)

ひがしおんな・あおい/初戦のいなべ総合(三重)戦を完封し、続く創成館(長崎)戦は1失点完投と、前評判に違わぬ快投。準々決勝の慶応(神奈川)戦では打ち込まれるも、楽しげに笑顔を見せた

 

■熊谷陽輝(北海(南北海道)・内野手、投手・3年)

くまがい・はるき/マウンドと一塁を行き来する大忙しの夏だった。小刻みな継投で13回3分の1を投げ、打っては3試合すべてで複数安打と獅子奮迅。神村学園(鹿児島)戦では本塁打も放つ

 

■真鍋慧(広陵(広島)・内野手・3年)

まなべ・けいた/元大リーガーにも例えられる強打者。立正大淞南(島根)戦で3点適時二塁打を放つ一方で、慶応(神奈川)戦では好機を広げるためバントを試み、チームプレーに徹した

 

■新妻恭介(浜松開誠館(静岡)・捕手・3年)

にいつま・きょうすけ/東海大熊本星翔(熊本)戦で逆転の2点本塁打を放ち、初出場で初勝利の快挙。捕手としても投手陣を引っ張り、北海(南北海道)戦では甲子園常連校を相手に接戦に持ち込んだ

 

■森田大翔(履正社(大阪)・内野手・3年)

もりた・はると/鳥取商(鳥取)戦で3点本塁打、高知中央(高知)戦でも本塁打を放ち強打者ぶりを見せつけた。いずれの試合も決勝点をたたき出す勝負強さを発揮。まさに4番打者の働きだった

 

■森煌誠(徳島商(徳島)・投手・3年)

もり・こうだい/徳島大会からすべて一人で投げ抜いた鉄腕。初戦の愛工大名電(愛知)戦を1失点10奪三振完投。智弁学園(奈良)戦では12失点も155球の熱投でマウンドを守り抜いた

 

■知花琉綺亜(智弁学園(奈良)・内野手・2年)

ちばな・るきあ/初戦の英明(香川)戦、1点を追う最終回に同点の足掛かりとなる三塁打。2回戦の徳島商(徳島)戦では3安打5打点と、中軸に劣らぬ働きを見せ気迫あふれるプレーで魅了した

 

■洗平比呂(八戸学院光星(青森)・投手・2年)

あらいだい・ひろ/初戦の明桜(秋田)戦で完封。準々決勝の土浦日大(茨城)戦では5四死球も、内角を強気に攻めた。「体も球速も成長させて(甲子園に)帰ってきたい」と来年の飛躍を誓った

 

■安田虎汰郎(日大三西東京)・投手・3年)

やすだ・こたろう/決め球のチェンジアップを操り、絶対的なエースに君臨。社(兵庫)戦を2安打完封、鳥栖工(佐賀)戦では二回途中からマウンドに上がり無失点と抜群の安定感を見せた

 

■土井研照(おかやま山陽(岡山)・捕手・3年)

どい・けんしょう/扇の要として投手陣を好リードし、日大山形(山形)、大垣日大(岐阜)、日大三西東京)と日大系列3校を撃破。初戦では勝ち越し適時二塁打を放ち、甲子園初勝利に導いた

 

■高橋慎(※)(大垣日大(岐阜)・捕手・3年)

たかはし・しん/阪口慶三監督の孫。初戦の近江(滋賀)戦を勝って、祖父に甲子園での勝利をプレゼント。続くおかやま山陽(岡山)戦では一時同点に追いつく本塁打を右翼ポール際に放った

 

■今岡歩夢(神村学園(鹿児島)・内野手・3年)

いまおか・あゆむ/全5試合で安打を放ち、主将、1番打者としてチームを牽引。長打に盗塁、本塁突入、ピンチ切り抜けなど、多くの場面で声を張り上げ大きなガッツポーズをする姿が印象的だった

 

■佐倉俠史朗(九州国際大付(福岡)・内野手・3年)

さくら・きょうしろう/佐々木麟太郎(花巻東)、真鍋慧(広陵)とともにビッグ3と称された強打者も、土浦日大(茨城)との初戦で涙をのんだ。快音なく迎えた九回に鋭く中前安打を放ち意地を見せた

 

■松田陽斗(土浦日大(茨城)・内野手・3年)

まつだ・はると/開幕戦の最初の打席で大会第1号の本塁打を放ち、準々決勝の八戸学院光星(青森)戦では4安打。九回にはだめ押しの本塁打をバックスクリーンに打ち込んだ

 

 

 

 

 

高校野球あれこれ 第121号

筑波山でなく富士山登る」

「目の前の3秒やりきる」…4強の土浦日大、躍進の理由

 

第105回全国高校野球選手権記念大会で、茨城県勢20年ぶりの4強入りを果たした土浦日大。この1年、選手や小菅勲監督は、全国で勝ち上がるための練習に本気で取り組み、それを着実に大舞台で披露した。

 

脅威の集中打

甲子園で1回に5得点以上の「ビッグイニング」を作り出したのは実に3度。チームの代名詞にもなった。専大松戸(千葉)戦では6点を追う展開で、三回に一挙5得点を挙げ、その後逆転。竜ヶ崎一や常総学院など長年県内の強豪校を率いてきた持丸修一監督は「あれだけ(バットを)振れるチームは初めてだ」と目を丸くした。

 

 2番打者の太刀川幸輝選手は「『目の前の3秒』をやり切れた結果」と明かす。たかが3秒、されど3秒。昨夏の県大会決勝でのサヨナラ負けをきっかけに生まれた合言葉は、短時間の集中で攻守に高いパフォーマンスを発揮できるという意識を選手に植え付けた。春からは3点ビハインドの状況を想定した実戦形式の練習も続け、小菅監督は「5万人の観衆の前でプレーする準備はできているか」と発破をかけてきた。

 

 大舞台での勝負度胸、劣勢に折れない心、抜群の集中力――。全ては日々の練習で積み重ねてきたものだった。躍進の要因を選手に尋ねても誰もが「やるべきことをやった結果」と同じ言葉を繰り返した。

 

指揮官の采配

初戦の上田西(長野)戦で小菅監督は同点の八回途中、延長タイブレイクを見据えて先発の藤本士生(しせい)投手から伊藤彩斗投手にスイッチ。藤本投手を一塁に残した。その意図は重圧のかかる延長戦で起用するため。狙い通り、延長十回に集中打で6得点し、再登板した藤本投手が1失点に抑えて勝ち切った。

 

 2回戦の九州国際大付(福岡)戦では右腕の小森勇凛(ゆうり)投手を先発に起用。春はエースナンバーを背負ったが不調に陥り、甲子園では「3番手」の位置づけだった。「殻を破ってほしい」との思いを込めて送り出した背番号18は、強力打線を5回1安打無失点に抑えた。不意をつかれた相手の楠城徹監督は「左(藤本投手)が来ると予想していたのに、右が先発してきて違う流れになった」とうなだれた。

 

快進撃の理由を問うと小菅監督は「筑波山ではなく、富士山を登るための準備をしてきた」と独特の言い回しで答えた。選手の活躍は、聖地での采配を幾度となくイメージしてきた成果だったのだろう。

 

「化けた」選手

 チームの躍進は、普段の努力に加え、大舞台での選手の成長も大きかった。

 

 九州国際大付戦で均衡を破る一発を放ったのは、練習を含めて高校で1本も本塁打を打ったことのない大井駿一郎選手。県大会では打率1割台だった右翼手の予想外の一発で、チームは勢いづいた。

 

 目標の8強を達成した日、小菅監督は選手たちに「監督としては満足している」と伝えた。「ここからどう意欲を保つべきか。自分たちで答えを見つけてほしい」。そんな思いからだった。選手で開いたミーティングでは、意見をぶつけ合うまでもなく「誰の目も死んでおらず、優勝を望んでいた」と塚原歩生真(ふうま)主将。チームは再び団結し、準々決勝では八戸学院光星(青森)を圧倒。小菅監督は「甲子園で(選手が)化けつつある」と表現した。

 

 「この先、きついことがあった時は甲子園を思い出したい」。太刀川選手の一言には重みがあった。頂点には届かなかったが、常に全力で、最高の仲間とともに味わった高揚感と達成感。敗れた準決勝後に宿舎で取材した土浦日大ナインの表情はすがすがしかった。

 

 

 

高校野球あれこれ 第120号

ライバル校へ“禁断の移籍”で非難も 

複数チームを甲子園に導いた高校野球の名将たち

 

開催中の夏の甲子園大会で、専大松戸・持丸修一監督が、8月12日の初戦(2回戦)で東海大甲府を下し、甲子園春夏通算8勝目を挙げた。持丸監督はこれまで竜ヶ崎一、藤代、常総学院専大松戸の計4校を春夏の甲子園に導いており、佐賀商、千葉商、印旛、柏陵を率いた蒲原弘幸監督と並ぶ大会最多記録になる。そして、この両監督以外にも、複数のチームで甲子園に出場した監督が多く存在する。

 

宮城県内の“二強”東北、仙台育英の両校で指揮をとったのが、竹田利秋監督だ。

 

 和歌山県出身の竹田監督は、東北時代に春夏通算17回甲子園に出場。1972年春に4強入りするなど、同校を甲子園でも勝てる強豪に育て上げた。

 

 だが85年、宮城に来てから20年経ったことを潮時と考え、夏の甲子園出発前に日付なしの辞表を学校側に提出。準々決勝で甲西にサヨナラ負けした直後、辞意を表明し、8月31日付で退職した。今後は県外の他校に移って指導を続けるとみられていた。

 

 ところが、これに「待った!」をかけたのが、宮城県体協会長で、野球に造詣が深い山本壮一郎県知事だった。「あなたを失うことは、東北の損失だ。宮城に残ってほしい」と誠心誠意で説得。そして、移籍先として仲介したのが、ライバル校・仙台育英だった。

 

 東北に残してきた教え子たちの気持ちを考え、決断に迷った竹田監督だったが、最終的に「私は宮城県が好きです。県の高校野球界に尽くしたい」の気持ちが勝り、仙台育英へ。

 

 東北、仙台育英の両校は、夏の甲子園出場をかけた対決が“七夕決戦”と呼ばれるほど、お互い強烈なライバル意識を持つ。ライバル校への“禁断の移籍”は、当然のように「裏切者!」「恩をあだで返した!」などと非難された。また、当時の仙台育英は不祥事で半年間の対外試合禁止処分を受けており、「ゼロと言うよりマイナスからのスタート」だった。

 

 だが、「宮城に、東北に優勝旗を持ってきたい」の情熱を胸に、竹田監督は翌86年夏、早くも同校を5年ぶりの甲子園に導き、89年夏には大越基(元ダイエー)をエースに準優勝と、大目標にあと一歩まで迫る。95年夏の甲子園出場を最後に退任したが、その意志を受け継いだチームは昨夏、須江航監督の下、東北勢初の全国制覇を成し遂げ、長年の悲願を実現した。

 

智弁学園智弁和歌山の両校で甲子園歴代最多の通算68勝を挙げたのが、高嶋仁監督だ。

 

 当初は監督になるつもりはなく、3年間の約束で智弁学園のコーチを引き受けたが、3年目に前監督が突然辞任したことから、急きょ後任に指名された。

 

 悩んで相談した大学時代の恩師から「とにかくやってみろ」と背中を押され、26歳で監督に就任。“打倒天理、郡山”を目標に、日々の練習を通じて部員たちとコミュニケーションをとることの大切さも学び、77年のセンバツ4強など、チームを春夏3度の甲子園に導いた。

 

 その後、同校野球部長を経て、80年に開校3年目、創部2年目の兄弟校・智弁和歌山の監督になった。

 

 だが、チームがある程度形をなしていた智弁学園に対し、当時の智弁和歌山は練習試合でも勝てない同好会レベル。春夏連覇達成の“王者”箕島が富士山よりも高く見える「ゼロからのスタート」だったが、個々の力に合わせた練習で選手を手塩にかけて育て、3年目の夏に県大会4強。以来、有力選手も入学してくるようになり、85年春に甲子園初出場をはたした。

 

 その甲子園ではなかなか勝てず、92年夏まで5連敗。だが、「また負けに来たんか!」というスタンドのヤジに「甲子園に出るために一生懸命やって来たが、甲子園で勝つために一生懸命やっていなかった」と思い当たり、常に甲子園を意識した練習法を導入。93年夏に初勝利を挙げると、翌94年のセンバツで初優勝。以後、春夏併せて35回出場。優勝3回、準優勝4回の黄金時代を築き上げた。

 

 広陵、福井(現福井工大福井)、京都外大西の3チームで甲子園勝利を実現し、冒頭で紹介した持丸監督(常総学院時代は未勝利)と肩を並べるのが、三原新二郎監督だ。

 

 選手の個性を引き出し、相手の虚を突く臨機応変な采配は、同姓のプロ野球監督・三原脩にちなんで“三原マジック”と呼ばれた。

 

 京都外大西時代の05年春、練習試合で負けが込み、前年のチームの1年分の負け数を上回ると、三原監督は「考えてプレーしているように見えない」と3年生全員に練習参加禁止を命じた。

 

そして、根気良く会話の場を持ったあと、彼らが練習に対する考えを改め、ひとつひとつのプレーの大切さを自覚するようになると、復帰を許した。

 

 その後、夏を最後に三原監督が勇退することを知ったナインは「監督を甲子園に連れていこう」と心をひとつにして目標を達成したばかりでなく、甲子園でも「2勝できれば十分」だったチームが、準優勝を成し遂げた。決勝では夏連覇の駒大苫小牧に敗れたものの、三原監督自ら「最高の夏だった」と評したように、同年の京都外大西の快進撃は、まさにマジックだった。

 

 取手二常総学院の両校で全国制覇を実現した木内幸男監督の“木内マジック”もそうだが、マジックとは“以心伝心”が基本であることを実感させられる。

 

 

 

 

 

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高校野球あれこれ 第119号

今を輝くプロ野球選手たちの高校時代【MLB編】 

甲子園で邂逅し、アメリカで再会した2人と、数々のドラマを生んだ稀代の右腕

大谷(現エンゼルス)は2年夏、3年春の2度、甲子園出場を果たした 

 第105回目を数える夏の甲子園大会へ向けて、高校球児たちがすでに熱い戦いを繰り広げている。今回は彼らの「先輩」であるプロ選手たちの高校時代にスポットライトを当てる。

 セ・パ12球団別に選手3名ずつをピックアップし、甲子園での活躍を振り返りたい。最終回となる今回はMLB編だ。今をときめくスター選手の高校時代を振り返るとともに、ぜひ先輩たちの後を追いかける高校球児の活躍もチェックしてほしい。

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大谷翔平花巻東(岩手)

 今さら語る必要のない“世界最高”の男にも、初々しさあふれる高校時代があった。

 中学3年時にセンバツ甲子園で準優勝した菊池雄星への憧れを持って花巻東へ入学した。1年夏までは野手専念で1年秋に投手解禁。東北大会で147キロを計測して注目を集め、2年春には最速151キロで“ダルビッシュ2世”と呼ばれた。そして2年夏、成長期による骨端線損傷を抱えた中で「3番・ライト」として岩手県大会を勝ち上がり、2011年夏の甲子園出場を果たした。

 だが、初めての甲子園は短かった。初戦で伊藤拓郎(元DeNA)、松本剛(現日本ハム)、石川亮(現オリックス)を擁した帝京(東東京)と対戦し、序盤から点の取り合いとなった末に7対8の惜敗。大谷は打者として5打席に立って2四死球の3打数1安打、投手としては4回途中からマウンドに上がって150キロを計測したが、調整不足が明らかで、5回2/3イニングを6安打5四死球3失点で負け投手となった。
 
 2度目の甲子園は3年春、2012年のセンバツ大会だった。だが、この時も故障を抱えて投手としては手負いの状態。その中で、藤浪晋太郎(現オリオールズ)、森友哉(現オリックス)のバッテリーを擁してこの年の甲子園春夏連覇を果たす大阪桐蔭(大阪)と初戦で対峙する。すると、打者として2回の第1打席、藤浪のカウント2-2からのスライダーをすくい上げ、長い滞空時間でのライト越えの先制弾を放つ。さらに投手としても5回まで2安打無失点の好投を見せる。しかし、6回に逆転を許すと最終的に8回2/3を7安打11四死球9失点(自責5)と乱れて2対9で敗れ、再び初戦で姿を消すことになった。

 迎えた最後の夏、大谷は岩手県大会でアマチュア球界史上初となる160キロを計測して大きな話題を集めたが、県大会決勝で盛岡大付に敗れて甲子園出場ならず。不完全燃焼の高校時代ではあったが、その分、大きな余白を残した状態でプロの扉を開けることになった。

 そして、今年は高校通算本塁打記録を塗り替えた大型スラッガー・佐々木麟太郎(3年)が最後の夏を迎えている。大先輩の大谷でも果たせなかった「岩手から日本一」の夢に向け、21日に岩手県大会の準々決勝を戦う。

藤浪晋太郎大阪桐蔭(大阪)

 その大谷と同学年のライバルだった男は、高校時代に圧巻のピッチングで甲子園春夏連覇を成し遂げた。

 中学校卒業時に身長194センチに達していたという大型右腕は、浅村栄斗(現楽天)らを擁して全国制覇(2008年夏)を果たした2年後に大阪桐蔭に入学した。当初から期待は特大。1年春からベンチ入りし、1年秋から先発投手として結果を残し、2年夏に150キロを計測した。だが、2年夏に府大会決勝で敗れるなど、3年春まで甲子園の土を踏むことはできなかった。

 2012年、満を持した甲子園の舞台で藤浪は躍動を続けた。2年春の初戦で花巻東(岩手)と対戦し、大谷翔平(現エンゼルス)に被弾するも9回を8安打12奪三振2失点で勝ち上がると、続く九州学院(熊本)戦では大塚尚仁(元楽天)と投げ合い、9回6安打8奪三振1失点。浦和学院(埼玉)戦は6回からリリーフ登板して4回を6安打6奪三振無失点で大会最速の153キロを計測すると、準決勝は健大高崎(群馬)を9回7安打9奪三振1失点。そして決勝では、田村龍弘(現ロッテ)、北條史也(現阪神)を擁した光星学院(青森)を相手に9回12安打6奪三振3失点の力投で、7対3の勝利を収めて頂点に立った。

 夏は、さらに輝いた。初戦の木更津総合(千葉)戦から153キロを計測して9回6安打14奪三振1失点で滑り出すと、準々決勝の天理(奈良)戦でも9回4安打13奪三振1失点と相手を寄せ付けず。そして準決勝の明徳義塾(高知)戦で9回2安打8奪三振無失点、春の再戦となった決勝では光星学院(青森)を9回2安打14奪三振無失点と、2日連続の2安打完封劇で史上7校目の春夏連覇に導いた。春夏計76イニングを投げて、90奪三振、20四死球防御率1.07という甲子園通算成績は「怪物」と呼ぶに相応しいものだった。

 藤浪以前、そして以降も、甲子園には幾人もの「怪物」が登場してきた。そして今夏も、母校・大阪桐蔭のエース・前田悠伍(3年)を含めて“候補者”が多くいる。果たして、彼らは甲子園の舞台で輝けるのか。まずは万全のコンディションで夏を過ごしてもらいたい。

ダルビッシュ有:東北(宮城)

 今年6月、野茂英雄に続くメジャー通算100勝を達成した稀代の右腕は、2年生時から甲子園4季連続出場を果たし、多くの“ドラマ”を演じ、経験した。

 甲子園初登場は1年秋の東北大会を制した後の2003年春だった。当時、成長痛や右わき腹痛を抱えた状態で万全ではなかったというが、スラリとした長身から切れ味鋭いボールを投げ込み姿は”大器”を予感させ、初戦の浜名(静岡)戦で9回4安打無四球1失点完投に抑え込んだ。だが、続く花咲徳栄(埼玉)戦では乱調で6回12安打9失点。早々に姿を消すことになった。

 その経験を経て迎えた夏、ダルビッシュは頂点に近づく。初戦の筑陽学園(福岡)で腰痛によって2回緊急降板のアクシデントも、続く近江(滋賀)戦では9回を投げ抜き、10安打を許しながらも要所を抑えての1失点。そして3回戦の平安(京都)戦では延長11回を2安打15奪三振無失点の快投劇を披露した。その後、準々決勝で光星学院(青森)では3回1/3イニング、準決勝で江の川(島根)では未登板の中でチームが勝ち上がると、決勝では常総学院(茨城)を相手に先発して9回を12安打4失点の力投。しかし、スコアは2-4と2点届かず、あと一歩で優勝を逃すことになった。

 そして3年春だ。1回戦で熊本工(熊本)と対戦すると、ダルビッシュはゆったりとしたフォームから伸びのあるストレートと変幻自在の変化球で相手打線を手玉に取り、大会史上12度目となるノーヒット・ノーランを達成した。さらに続く2回戦では大阪桐蔭(大阪)との優勝候補同士の対決に3対2で勝利する。だが、準々決勝の済美(愛媛)戦は右肩痛で先発を回避。それでも眼鏡のサイド右腕・真壁賢守の力投で9回2死まで6対4とリードしていたが、「あと1球」からレフトを守っていたダルビッシュの頭上を越えるサヨナラ3ランが飛び出すことになった。

 最後の夏は、1回戦で北大津(滋賀)を9回8安打10奪三振、2回戦で遊学館(石川)を3安打12奪三振で2試合連続完封という万全のピッチングを披露して「今度こそ」との期待が高まった。だが、3回戦の千葉経大付(千葉)戦で再び“ドラマ”が襲う。雨の中、1対0とリードして9回を迎えるも、2死3塁からのサードゴロがタイムリーエラーとなって延長戦に突入。延長10回に勝ち越し点を許して敗れることになった。

 特別な才能を持った選手、強さを誇るチームであっても、勝ち続けるのは至難の業だ。それは今夏、宮城県大会準々決勝で東北を下したライバル・仙台育英にとっても同じことが言える。ダルビッシュが果たせなかった「白河の関越え」を2年連続で果たすことができるのか。今夏の“ドラマ”の行く末に注目したい。

高校野球あれこれ 第118号

今を輝くプロ野球選手たちの高校時代【日本ハム編】 

甲子園でフィーバーを巻き起こした2人の主役

決勝で敗れたが、2018年夏の主役は吉田輝星だった 

 第105回目を数える夏の甲子園大会へ向けて、高校球児たちがすでに熱い戦いを繰り広げている。今回は彼らの「先輩」であるプロ選手たちの高校時代にスポットライトを当てる。
 セ・パ12球団別に選手3名ずつをピックアップし、甲子園での活躍を振り返りたい。今回は日本ハム編だ。今をときめくスター選手の高校時代を振り返るとともに、ぜひ先輩たちの後を追いかける高校球児の活躍もチェックしてほしい。

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吉田輝星:金足農(秋田)

 ドラフト1位でプロ入りした右腕の高校時代の記憶は、まだ新しい。2018年夏の甲子園で「金農旋風」と呼ばれるフィーバーを巻き起こした。

 秋田で生まれ、秋田で育ち、秋田の県立金足農業高校に入学し、1年夏からベンチ入りした。2年夏には県大会で同校10年ぶりの決勝進出を果たすも、同じ2年生として山口航輝(現ロッテ)、曽谷龍平(現オリックス)がいた明桜に6回途中5失点でKOされて甲子園には届かなかった。だが翌夏、県大会決勝で再び明桜と対戦し、今度は9回4安打11奪三振の完封劇で聖地行きの切符を手にすることになった。

 本格派右腕としての注目を集めて臨んだ夏の甲子園、初戦の鹿児島実(鹿児島)から自慢の“伸びるストレート”を武器に14奪三振を記録。9回9安打1失点の力投を演じる。続く大垣日大(岐阜)戦では9回6安打3失点13奪三振。そして3回戦では優勝候補に挙げられていた横浜(神奈川)を相手に9回12安打4失点14奪三振をマーク。初回に2点を奪われるも3回に自らの2ランで追いつくと、最速150キロを計測したストレートで相手打線をねじ伏せ、8回の逆転劇(5対4)に繋げた。

 さらに準々決勝では近江(滋賀)を相手に、吉田が9回7安打2失点(自責1)に抑えると、9回裏に2ランスクイズが決まり3対2のサヨナラ勝ち。準決勝の日大三西東京)戦も1点を争う好ゲームとなったが、吉田が9回を9安打1失点の5試合連続完投で2対1の勝利を収めた。決勝では“最強世代”の大阪桐蔭打線につかまって5回12失点(自責11)で敗れることになったが、地元出身者のみの県立高、そして6試合50イニング、計881球を投じた吉田の奮闘ぶりに大きな拍手が送られた。

 あの夏以来、金足農は春夏通じて甲子園の舞台に立てていない。今夏も県大会初戦で秋田中央に延長タイブレークの末に4対5で敗れた。だが、同試合で吉田輝星の弟・大輝(1年)が公式戦デビュー。来年以降の“聖地帰還”に期待したい。

清宮幸太郎早稲田実西東京

 プロの舞台で苦しみながらも天性の長打力を見せている男は、小学生時代から飛び抜けた才能を見せつけ、高校通算111本塁打を記録した“怪物”だった。

「東京北砂リトル」時代に世界大会で優勝し、米メディアから「和製ベーブ・ルース」と報道された清宮は、「調布シニア」でも全国優勝を果たす。そして鳴り物入り早稲田実へ入学すると、すぐに「3番・ファースト」として快音を残し、早くも“清宮フィーバー”と呼ばれるような人気と注目を集めていた。

 だが、その知名度に反して、夏の甲子園に出場したのは1年生だった2015年の1度のみだった。だが、その“1度”でスターになる。初戦の今治西(愛媛)戦で4打数1安打1打点、続く堀瑞輝(現日本ハム)を擁した広島新庄(広島)戦では4打数2安打1打点、そして3回戦の東海大甲府(山梨)戦で甲子園初アーチを含む3安打5打点の活躍を見せた。さらに準々決勝の九州国際大付(福岡)戦でも2号アーチを含む2安打1打点。準決勝で仙台育英(宮城)に敗れたが、1年生ながら大会を通して打率.474、2本塁打、8打点の好成績を残した。

 清宮が再び甲子園に戻ってきたのは3年春。1年時以上に世間からの大きな注目を集めた中、初戦は明徳義塾(高知)に延長戦の末に5対4で勝利し、清宮は4打数1安打。続く2回戦の東海大福岡(福岡)戦では三塁打二塁打の2安打を放ったが、チームは8対11で敗れた。そして最後の夏は、都大会決勝で東海大菅生に敗れて、甲子園には届かず。それでも履正社の安田尚憲(現ロッテ)、広陵の中村奨成(現広島)、そして九州学院の村上宗隆(現ヤクルト)らの同学年の強打者の中でも、頭一つ抜けた存在だった。

 早稲田実は、清宮が卒業後は甲子園出場を果たせていないが、今夏、群雄割拠の西東京を勝ち抜けるか。そして、清宮が記録した高校通算111本塁打の歴代最多記録を更新した佐々木麟太郎(花巻東)は、その記録をどこまで伸ばすのか。注目点は多い。

万波中正:横浜(神奈川)

 今やリーグを代表するスラッガーの仲間入りを果たした男は、高校時代から抜群の身体能力、規格外の飛距離で大きな注目を集めていた。

 中学時代からすでに話題だった。テレビ番組で身長188センチ、最長飛距離140メートル、スイングスピード154キロの「スーパー中学生」として取り上げられた。名門・横浜高校では、2学年上に藤平尚真(現楽天)、石川達也(現DeNA)、1学年上に福永奨(現オリックス)、増田珠(現ソフトバンク)がいた中で入学後すぐに試合に出場し、1年夏の県大会で横浜スタジアムの大型ビジョンに直撃する135メートル弾を放って「スーパー1年生」と騒がれた。
 
 甲子園デビューは、2年時の2017年夏だった。初戦で田浦文丸(現ソフトバンク)擁する秀岳館(熊本)戦に「5番・ライト」で出場して1安打を記録。1学年下の及川雅貴(現阪神)の後を受けて4番手としてマウンドに上がって146キロを計測するも、2/3回を2安打2失点。チームは4対6で敗れて涙を飲んだ。
 
 3年夏、万波の背番号は「13」だった。春に極度のスランプに陥って一時、メンバー外になったからだ。だが、最後の大会が始まると一気に調子を上げ、南神奈川大会(※この年は記念大会のため、南北神奈川大会として開催)の4試合で打率.542、2本塁打、12打点と快音連発。特に準々決勝・立花学園戦で放ったバックスクリーン直撃弾は周囲を驚かせるものだった。だが、背番号「9」で出場した甲子園本大会では、1回戦の愛産大三河(愛知)、2回戦の花咲徳栄(埼玉)を相手にノーヒット。ようやく3回戦の金足農(秋田)で吉田輝星(現日本ハム)と対戦して2安打をマークしたが、チームは4対5で敗れ、不完全燃焼のまま大会を去った。

 今夏の横浜も能力の高い選手を揃えながら攻守に高いレベルのチームとなっており、7月21日の準々決勝・相洋戦を迎える。